[第二十九回] YURIKO TAIJUN HANA 〜武田百合子『富士日記』の4426日。

 これまでの連載分を文庫サイズのZINEとして無事にまとめることができた。発売からまだ間もないが、おかげさまで好評を頂いている。
 執筆を続けている3年半の間、ずっと底本にしてきた1981年版(1989年4刷)の文庫がボロボロになってしまったので、先日立ち寄った神戸の古書店で上巻を見つけて買い直した。同じ中公文庫版で、1997年に改版されているものだ。フォントも変わり、文字の級数も大きくなり、行間も広く取られている。ページ数も100ページ以上増えて、手にした時の重さも、束の厚みも全然違う。まだ慣れないので、違う本を読んでいるみたいな不思議な感じがする。家具の配置を変えたせいで部屋の印象が少しだけ変わるように新鮮だ。読んでいて目が留まる箇所もたぶん変わるだろう。もちろんボロボロになった方の文庫本も愛着があるので処分はせず、これからも大切にしていくつもり。さあ、気分も新たにまた読み進めていこう。
 なお、文中の英数字などが部分的に半角ではなく全角で記載されているのは、のちのち書籍化するときの手間を省くためだ。第1巻を作る際、変換に少々手間がかかったので、横書きではマヌケな印象になってしまうけれど、そこは気にしないでいただけるとうれしい。

昭和四〇年十一月(2)

 昨夜からダンロのオキで豆炭を熾し、アンカを二つ作る。(十一月十二日)

 別荘生活も2年目に入った。これから始まる厳しい冬への備えも徐々に学んできた武田家。それでも細かいトラブルはいろいろ起きる。しかし、困ったときに世話を焼いてくれる人々も増えたせいか、対応には少し余裕も感じる。

 今朝は風が冷たい。正月に吹く風のようだ。(同日)

 正月にはどんな風が吹いているだろう。ぼくが思い浮かべる正月の光景は、おだやかに空が晴れ渡り、清冽な空気と少し青みがかった陽の光で、街が明るく照らされているイメージなのだが。

 三合目の樹海台に車を駐めて、聖母像を観に行く。(同日)

 聖母像は現存する。正式名称は〈富士の聖母像〉───そのままですね。カトリック系の修道会「サレジアン・シスターズ」が百合子たちが訪れる前年(1964年)10月に建立したものだ。サレジアン/サレジオと聞くと、反射的に思い出すのは「サレジオ教会」。正式名称は〈カトリック碑文谷教会〉である。神田正輝と松田聖子の(または三浦知良と設楽りさ子の)結婚式で日本中に名前を知られるようになった、例の教会だ。

東京国立博物館のデジタルアーカイヴより引用。

 もともとサレジオ教会は〈江戸のサンタマリア〉という異名を持つ聖画『親指のマリア』に捧げるために建設された。絵のレプリカが現在も同教会に飾られている(本物は重要文化財として東京国立博物館に収蔵)。『親指のマリア』は江戸中期に来日して、幕府に幽閉された最後の切支丹伴天連、ジョヴァンニ・シドッティがひそかに日本へ持ち込んだものだ。額縁を含めて26.7cm×21.7cmという大きさなので、ちょうどA4サイズくらいだ。『親指の〜』という呼び名は見てのとおり、マリアが羽織っている青いマントの中からちらりと左手の親指がのぞいているのが由来だ。なぜそうなっているかはわからないらしい。画家はフィレンツェ出身のカルロ・ドルチ。彼は同じようなモチーフで『悲しみの聖母』という別の絵も描いているのだが、こちらは両手首の先がすべて見えている。
 キアラは幽閉先で長らく身の回りを世話してくれた住み込みの夫婦に洗礼を行った。その咎で地下牢に閉じ込められ、二度と陽の目を見ることなく衰弱して死んだ。ちなみに、シドッティが暮らしたのは、遠藤周作の『沈黙』に登場するパードレ=宣教師ジュゼッペ・キアラ(マーティン・スコセッシ監督の映画版でアンドリュー・ガーフィールドが演じていた)のために作られた小石川の切支丹屋敷だった。

 10日後の23日、障子紙や襖用の和紙などを東京で購入し、夫妻は山荘に戻ってくる。翌24日に建具屋がやってきて、障子や襖の張替え作業を行っている。泰淳の仕事部屋の天窓にも障子紙を貼った。これは泰淳自身のアイディアで、断熱のためらしい。雑誌などに掲載された武田山荘の写真を見ると、かなり天井が高い。実際、建具屋が持ってきた梯子の高さだけでは天窓まで届かなかった。泰淳の仕事机の上に梯子を載せ、その上で建具屋は作業をした。

 煖炉で火を焚いてみると、何だか前より暖かい気がする。障子を入れたり、天窓のガラスを二重ばりにすることを考えた主人のことと、建具屋さんの腕前のことを、私はしきりに感心してほめたが、ガラス戸を開けてみたら、今夜は外も大へん暖かいのであった。(十一月二十四日)

 断熱の効果も出て、泰淳の仕事もさぞ捗るとおもいきや、この日は早朝から昼過ぎまで停電が起きた。しかも障子などを張り直したせいで接着剤の臭いが室内に充満し、気が逸れて原稿に手がつかなかった……というオチが付く。そんなこともあってか、日付は不詳だが、赤坂の自宅に戻ったようだ。そして三十日にまた出直している。

調布経済新聞より引用。ちょうど百合子たちが白バイに取り締まられた頃のキューピー仙川工場を捉えた航空写真。

 甲州街道は公開取締りの白バイが走りまわっている。仙川のキューピーマヨネーズを過ぎた下り勾配のところで白バイに寄られ、停められる。(十一月三十日)

 警官に停車させられたのは、百合子たちの車のテールランプが故障していて、点灯したり点灯しなかったりするのを見咎められたからだ。すぐに工場で修理を済ませること、そして別荘から戻り次第、中野区野方にある白バイ機動隊まで出頭するように、と注意を受けた上、フロントガラスに「故障」という紙を貼られた。調布で取り締まられたのに、どうして中野まで? と疑問に感じて調べてみたところ、なかなか詳しいことはわからない。警察関係の資料はネットじゃあまりつまびらかになっていないみたいだ。最終的に元・交通機動隊の隊員と思わしき人物が書いたブログにたどり着いた。それによると、1965年当時は野方を拠点とする第四方面交通機動隊がこの付近をカバーしていたようだ。その後、高速道路交通警察隊が1971年に発足し、首都高、中央道、圏央道の取締りを専門的に行っている。
 また〈仙川のキューピーマヨネーズ〉にも触れておこう。1919年に前身となる食品工業株式会社が創業し、1925年にキユーピーを商号にマヨネーズの生産を開始している。つまり、マヨネーズは戦前(大正14年)から100年近く日本の食卓に上がり続けている、ウルトラロングラン商品なのだ。1957年に現在の社名に変更し、1960年、この仙川に本社兼工場が作られた。無論、百合子たちが目にしたのはここのことだ。本社は1969年に渋谷へと移ったが、仙川工場は2011年2月まで操業が続いた。現在は工場跡地を活用して、マヨネーズのテーマパーク「マヨテラス」に生まれ変わっている。なお、百合子はキューピーと記載しているが、正式には〈キユーピー〉が正しい。戦前までは拗音を小文字で表記することが浸透していなかったためで、同じく戦前に創業した富士フイルムやシヤチハタの〈イ〉や〈ヤ〉が大文字なのも同様の理由である。

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