昭和三十九年七月(二)

 いずれ劣らぬ名文家たち───丸谷才一、高峰秀子、和田誠、開高健、東海林さだお、吉田秀和、澁澤龍彦、山下洋輔、殿山泰司、吉行淳之介、中上健次、植草甚一といった、錚々たるメンバー五十五名が<文章を書くこと>について書き下ろしたエッセイ集『週刊朝日編 私の文章修行』(朝日新聞社)に武田百合子も寄稿している。夫・泰淳から日記を書くことを強くうながされたときのことをふりかえった「絵葉書のように」という文章だ。

『週刊朝日編 私の文章修行』
『週刊朝日編 私の文章修行』

 山小屋が建ったとき、もらいものの日記帳を私の前に置いて夫は言った。「百合子にこれをやるからな。日記をつけてみろ。山にいる間だけでいいから。俺もつけるから。代る代るつけよう。な? それならつけるか?」。私が首を振ると、「どんな風につけてもいい。面白かったことやしたことがあったら書けばいい。日記の中で述懐や反省はしなくてもいい。反省の似合わない女なんだから。反省するときは、必ずずるいことを考えているんだからな。百合子が俺にしゃべったり、よくひとりごと言ってるだろ。あんな調子でいいんだ。自分が書き易いやり方で書けばいいんだ」と、重ねて言った。
 (中略)山暮しの夕飯はいつも早々と終った。(ながいことタダで食べさせてもらっているもの。それじゃ、日記ぐらいつけてみようか)私は、毎晩日記帳をひろげた。

 夫の稼ぎで長く食べさせてもらっているのだ、日記くらい言われるとおりにつけてみるか───と、百合子は考えた。「オレが食わせてやっているんだ、ありがたく思え」なんて夫のほうから言い出したら、今じゃ1000パーセントの確率でトラブルに発展するだろう。たとえそれが妻自身の考えであっても、だ。表沙汰にすればどんなバッシングを受けるかわからない”危険思想”。
 しかし、百合子と泰淳にとっては、夫婦として結ばれる以前から、この<食べる/食べさせる>という関係性がとても重要だった。
 このことについては、いずれ詳しく書くことになると思う。

 とにもかくにも、泰淳の言葉どおり、彼女は1964年7月18日に日記を書き始めた。
 そして前日、たった三行だけだった日記は、翌7月19日にはこのように変化する。全文を引用してみよう。

七月十九日(日)
 朝、十時ごろまで風雨。
 ひる ホットケーキ。
 午後、河口湖まで買出し。馬肉(ポコ用)、豚肉、トマト、ナス。
 河口湖の通りは大へんな人出と車の排気ガスで、東京と同じにおいがしている。湖上はボートと遊覧船とモーターボート。湖畔は、紙くずと食べ残しのゴミの山と観光バスと車で、歩くところが少ない。
 夜はトンカツ。
 くれ方に散歩に出たら、富士山の頂上に帽子のように白い雲がまきついて、ゆっくりまわって動いている。左の方に麓から七合目までぐらい、灯りの列がちらちら、ちらちら続いている。登山の灯だろうか。花子に見せてやろうと家まで降りてきて連れて出ると、もう富士山は全部雲におおわれて、富士山がどこにあるのかも分らない。灯も見えない。本当に、あっというまに、雲がおりてきたのだ。

 特に、後半の富士山と雲の描写は、前回に引用した泰淳のそれと比較するとおもしろい。

 富士は奇怪な白髪の老人のような顔になる───と、文学的で、仰々しい比喩を駆使する泰淳とちがい、百合子はけっして難しい言葉を使わないけれど、彼女が何気なく見た夕暮れの風景は、ぼくの目の中にはっきりとうつりこんでくる。

 巨大な白い雲が富士の上空をゆったり旋回するように流れている。日はみるみる傾き、薄暗い富士の道を人々が歩を進めている。登山者たちはきっと明日の御来光をめざしているのだ。こんな美しい風景をひとりで見るのはもったいない、と彼女は思った。武田山荘はおもての道路よりも低い位置に建っていたので、百合子はいそぎ坂をくだり、家にいた花にいっしょに見ようと声をかけて、連れ出した。

 しかし、山の天気は彼女が思うよりも変化が早い。娘と共有したかった光景は、あっというまに雲のむこうへと消え去ってしまっていた。
 そのときの百合子の心情は書かれていない。だが彼女の落胆、都会とは違う激しい天気の移り変わり、自然への畏敬の念も、こんな簡潔な文章なのにひしひし伝わってくるのはなぜだろうか。

 先ほど紹介した百合子のエッセイ「絵葉書のように」のなかに、泰淳のこんな言葉が引用されている。

「絵葉書の写真をバカにしてはいかんぞ。泥臭くて野暮臭くて平凡さ。しかし隅々まではっきりていねいにうつしてある。それだけだってたいしたもんだ」

 誰が読む日記でもないのだから、と思えばつい書きそうになる自分の心情などをいっさい排して、絵葉書のように───というアドバイスだけを心がけながら、百合子はその日の天気、食べたもの買ったもの、印象的な出来事や風景のひとつひとつを隅々まではっきりていねいに書いている。以後、これが百合子の書く日記のひな形になっていく。時に泥臭くて野暮臭いことも含まれてはいたが、断じて平凡な文章などではなかった。