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昭和三十九年七月(一)

 『富士日記』の第一日目である昭和39(1964)年7月4日(土)と、二日目の7月7日(火)は、百合子ではなく、夫である泰淳によって記述されている。
 誰かからの貰い物の日記帳を一冊、彼女に手渡して、山の生活を日記として記録することを提案したのは、ほかならぬ泰淳だ。

ぼくだけが夏一ぱい帰らずにとじこもるつもりで。5日(日)に百合子と花は帰京する(泰淳)

 7月5日から18日までの約二週間にわたって、泰淳は家族と離ればなれで、ひとり山荘にて過ごしたと思われる。長女の花は当時、中学一年生だった。彼女は杉並区久我山にある立教女学院中学校に通っていた。厳密に言うと親元から離れて、入学と同時に寄宿舎へ放り込まれていた。彼女の一学期はまだ授業が残っていた。

 時期は諸説あるが、百合子が書いた『富士日記』のまえがきによると昭和39年の晩春、山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原に別荘は完成した。泰淳は週の半分をここに篭もって、執筆の仕事をするつもりだった。「寸心亭」「寸心庵」「百合花亭」「百花荘」など、泰淳は山小屋の愛称をいくつも思案した。愛する妻と娘の名を織り込もうとしていた様子が見て取れて、じつにほほえましい。
 オリジナルの日記帳の見返しには「不二小大居百花庵日記」と書かれていた。百合子がこれを発見したのは泰淳の没後のこと。これが『富士日記』の単行本(1977年・中央公論社刊)に副題として付けられた。別荘の入口には、シンプルに「武田山荘」と書かれた表札が掲げられていたという。

 初めての山ごもりのために泰淳は、自宅から何冊かの本を山荘へ携えている。

・手塚富雄『ゲオルゲとリルケの研究』
・『聖書』『ミリンダ王の問い』『鸚鵡七十話』『捜神記』『浄土三部経(上)』(以上、平凡社東洋文庫)
・『原色花卉図鑑(上)』
・大塚有章『未完の旅路(三冊)』

 ドイツ文学研究の第一人者である手塚の著作、赤色ギャング事件で名を馳せた社会運動家の自伝、そして東洋文庫を数タイトル。和洋折衷。いかにも泰淳らしいチョイスというべきか。
 花卉は<かき>と読む。「卉」は草の意。花卉は鑑賞に特化した、野菜や果樹以外の植物を指す。泰淳が別荘に持って行ったのは、植物学者塚本洋太郎が著した保育社の原色図鑑シリーズの一冊だ。もちろん自然の中で出会った草花を、この本でじっくり調べるつもりだったのだろう。
 それにしても、夏の高原にはまったく似つかわしくないハードな本ばかりだ。図鑑以外は一冊たりとてリラックスして読めそうな本は無い。
 コンピューターもインターネットもない時代の作家たちにとって、趣味や娯楽というよりも、トレーニングに近い読書というのは、今よりもはるかに必要性が高かったのだろう。テレビの登場で日本人の白痴化が叫ばれたのがちょうどこの頃だが、彼らが今のぼくたちを見たら、同じ人類とみなさないかもしれない。

 夏を待ちきれなかった泰淳はこうした茶色くて重い本とともに、百合子と花の到着を待つ。食事は? 余暇は? 疑問は尽きないが、そのあいだ彼が山荘でどんな生活をしていたのかは、ほとんど記述されてないので知る由もない。
 ただ、こうして数日間にわたって、泰淳ひとりが山荘で生活したことは、13年分の日記を読みかえしたかぎり、その後一度としてなかった。
 このあいだに唯一書かれた7月7日の日記は、富士にかぶった笠雲についての、いかにも文学者らしい観察記である。

笠雲の下の方が白髪の一束がパラリと垂れたように降下すると、富士は奇怪な白髪の老人のような顔になる(泰淳)

 そしてついに百合子たちが富士にやってくる。7月18日(土)のことだ。
 武田家にとって初めての本格的な山荘暮らしは9月3日に帰京するまで、47日間にも及ぶ長い滞在となった。
 その夜、百合子は泰淳からうながされ、はじめて筆を取った。わずか三行の日記だった。

 七月十八日(土)
 朝六時、東京を出て少し過ぎに着く。大月でお弁当三個。管理所に新聞と牛乳を申し込む。
 夕方、溶岩拾い。
 夜、風と雨。夜中にうぐいすが鳴いている。大雨で風が吹いているのに鳴いていた。

 一筆書きのような短い文章だが、最後の一行はすでに百合子らしい文章のリズムと、何気ない風景をカメラのように写しとる優れた観察眼の一端が現れている。