デザイン:赤瀬川原平(『赤瀬川原平の芸術言論展図録』より)
夢屋包装紙 / デザイン:赤瀬川原平(『赤瀬川原平の芸術言論展図録』より)

昭和三十九年九月〜十月

 七月中旬から断続的に続けていた夏の高原暮らしを終え、一家は九月三日に赤坂の自宅へ帰った。
 そして約一ヶ月後の九月三十日、泰淳と百合子は山荘へ戻る。
 今回はめずらしく夜七時半に東京を出発する夜間走行だった。
 しかしこの道のりでも、例によって例のごとく大きな交通事故に遭遇する。都内を抜けてすぐ、相模湖のあたりで木材を積んだトラックが横転しており、渋滞に捕まってしまったのだ。そこを抜けだしたあと、今度は大月〜富士吉田間で異様な眠気に襲われ、百合子はピンチに陥る。

途中三度ばかり、はっとすると真正面に大トラックが見えて左へハンドルをきる。ときどき夢をみながら、それでもアクセルをふんでいる。夢は、家について部屋の中に坐り、茶ダンスからお菓子をだしてお茶をいれて飲んでいる。うちには茶ダンスなんかないのに。ダンプの運転手の気持ちがわかったように思う。出がけに深沢[七郎]さんの薬をのんできたのが原因だ。あの薬はのんで少し経つと瞼の裏やお腹の中が熱くなってみみずが一杯湧いてて動きまわっているようになり、やがて下痢する。あの薬は運転してきて、家の中に入ってから飲まなくてはいけなかった。(九月三十日)

 そこまでわかっていて、運転前になぜ飲んだ? と百合子に問いただしたくなる深沢さんの薬。まったくもって強烈な効き目である。


 夢のなかでしかありえない風景を見る───深沢七郎と夢は大きな結び付きがある。

深沢七郎

 小説『楢山節考』で知られる深沢七郎は、まさに異色の作家であり、怪人物だ。
 ぼくが彼に興味を持ったきっかけは、根本敬の『真理先生』(第11回みうらじゅん賞受賞作品)に収録された随筆「赤塚先生から赤塚と呼び捨てになった時」冒頭の一文と、そこに付された深沢に対する長い註釈文だった。
 深沢は心から慕っていた正宗白鳥の没後、<どんな偉い先生でもそれは生きている間のことであり、死んだら皆平等なのだ。だから呼び捨てにしていいのだ>と、一切敬称を使わず、正宗、白鳥と呼び捨てにした。この考え方に共鳴した根本さんは深沢に倣い、敬愛する赤塚不二夫の死後「赤塚不二夫と呼び捨てにすることにしよう」と決意したのだという。
 また註釈のなかで根本さんは、深沢七郎を<バカのふりをする天才>と呼び、同様に<バカのふりをする天才>赤塚不二夫と共に、こう評するのだった。

「両人”素”が真面目で、酒を飲んだりバカのふりなり何かやってなければ、”地”そのものは”退屈”な人間に感じた。だからこそこんなに<とても面白い人>、<スゴく変な人>という印象を我々に与えて逝く事に成功したのだと思った。

 深沢は1914年、山梨県石和の生まれ。四十歳のときに舞台演出家、丸尾長顕(久里洋二の師匠でもある)に見出され、ギタリスト”桃原青二”として日劇ミュージックホールで活躍する。二年後、丸尾の熱心な手ほどきの下で書き上げた『楢山節考』で中央公論新人賞を受賞。この本がベストセラーとなって以降、深沢は世話になった丸尾ときっぱり袂別した。自分が世に出るという使命を果たす間だけ”バカのふりをしていた”のかもしれない。
 ちなみにこの中央公論新人賞の審査員が三島由紀夫、武田泰淳、伊藤整だ。

 1960年に発表した小説『風流夢譚』は、彼の夢のなかで起きたある”革命”の情景を、自動筆記のように記したシュールな掌編だが、当時、非常に大きなスキャンダルとなった。その直後から深沢はギターを背負い、約二年にわたって全国を放浪する。1965年、五十一歳で埼玉県郊外に「ラブミー農場」(大好きなエルビス・プレスリーの『ラブ・ミー・テンダー』と大ヒットしていたドラマ『ララミー牧場』からインスパイアされた)を作り、自給自足の生活を開始。また1966年に今川焼きの店「夢屋」(なんと挑発的な屋号だろう!)をオープンし、店の包装紙を横尾忠則、赤瀬川原平が制作した。
 なお武田夫妻と深沢七郎の交流はこのあとも長く続いている。


 不在にしていたひと月のあいだに襲来した台風のせいで、別荘には金槌が錆びるほど湿気がこもっていた。十月一日は建物に風をとおし、台所の整理などに明け暮れる。
 翌二日は夫婦ふたりきりでひさしぶりに富士山方面へドライブに出かけた。しかし、有料道路の料金所で一悶着が発生する。

いつも無人の検札所に二人いて「ここからいきなり富士山へ上っていってはいけない。ゲートまで下って、入口で五合目までの料金を払ってから上ってきてくれ」という。「あれ、へんなこというじゃない」と、私がいい返しはじめたら、主人、首を振って「百合子」と小さな声でいう。入口まで下って千二百円はらって上る。(十月二日)

 説明するとこういうことだ───この年の四月に開通したばかりだった富士スバルライン。胎内付近にある料金所は係員がどういう理由かいつも不在だった(少なくとも百合子たちが利用したときには)。この料金所は別荘からもっとも近い場所にある。これまで百合子たちはここから有料道路に進入し、料金を払うことなく終点までドライブしていたのだろう。この日は係員に見咎められた上に、泰淳にたしなめられ、百合子たちは起点まで5キロほどの道を戻り、正規運賃の1,200円を支払った。第三回で考察したように、うどん一杯が50円の時代だから、これはかなり大きな出費と言える。

スバルライン

 改めて調べたところ、現在この有料道路の事情は大きく変わっている。
 スバルラインは2005年に料金徴収期間を満了し、当時、百合子たちが横入りしようとした料金所までは無料道路となった。つまり彼女が係員と言い争った地点からが、ちょうど有料道路になったのである(上記マップ上、黄色が無料区間、オレンジが有料区間)。
 まあ、いずれにせよ料金は払うことになるのだが、普通車は片道で1,030円。当時よりだいぶリーズナブルである。

 このあと夫妻は一旦大沢のあたりへ車で上り、本栖湖や精進湖、田貫湖を眺めたあと、赤い熔岩をバケツに拾い集める。持ち帰って山荘の庭などに敷くためだ。そして五合目をまわってからスバルライン方面に戻り、御庭山荘という小さな茶店(今は廃墟になっているそうだ)に駐車する。この日はすばらしい快晴で、富士登山には絶好の天気───と百合子は茶店の人から聞く。

頂上はすぐ近くに見えて、あと三十分も登れば頂上にゆけそうだ。「ちょっと駆けていって頂上まで行ってきたい」と言ったら「駄目」と主人言う。(同日)

 本日二回目となる泰淳の冷静なつっこみ。
 実際のところ、五合目から頂上までは約五時間、下りで三時間半かかる。もし百合子がこの日ほんとうに頂上まで駆けていったとしたら『富士日記』はこの日で幕引きとなったかもしれない。
 
 ちなみにこの九月三十日からはじまった滞在に関する日記はこの三日分だけ。次の日記は十一月七日に東京を出発するところから記載されているため、結局、何日間の山暮らしだったかは不明である。