昭和三十九年八月(三)

odu-nakai

『小津安二郎 人と仕事』(蛮友社)より転載。

 夏の盛りもそろそろ過ぎようとしていた。
 いよいよ47日間にも及んだ、最初の長い山荘生活も後半戦。百合子と花はお盆だろうがなんだろうが、飽きもせず富士五湖に出かけて泳ぎまわっている。
 そんななか八月十七日には午前四時に起床し、一家全員で東京へ戻った。都内に着くと、泰淳は夕方から中央公論社で対談仕事、百合子は銀行へ、花はプールと、めずらしく三者バラバラに過ごしている。
 思えば山荘にいるあいだは、ほぼ一日中、顔を突き合わせていた家族全員が───ああ、そうだ、大事なメンバーを忘れてはいけない。彼らの愛犬、ポメラニアンのポコもいた。一泊二日の東京行きだったから、この日は山荘で留守番を命じられていた。つまりこの日は三人と一匹がそれぞれ別々の場所で過ごした。

夜十時、ガソリン入れ、車点検。
今朝、佐田啓二が蓼科の別荘からの帰り、韮崎で交通事故死。
六本木のスタンドの人は「相模湖へ車ごと落ちて、一人死亡二人重傷」と言っていた。(八月十七日)

小津安二郎『お早よう』より。
佐田啓二 / 小津安二郎『お早よう』より。
 この日、俳優の佐田啓二が交通事故で死亡した。
 長野県の蓼科に、佐田も百合子たちと同様、別荘を新築したばかりだった。
 蓼科には小津安二郎が昭和三十年に建てた別荘「無藝荘」があった。小津はそこで『早春』を構想し、『東京暮色』以降のすべての脚本を野田高梧と共に書いた(先に相方の野田が蓼科に「雲呼庵(うんこあん)」という別荘を持っていた)。
 佐田は公私ともに小津安二郎のお気に入りの俳優であり、『彼岸花』を皮切りに、松竹大船で撮られた後期の作品にはすべて出演している。小津の最期の日々を実の息子のように看護したのも佐田だった。
 佐田が蓼科に別荘を建てたのは、小津の勧めがあったからだ。彼はその別荘からドラマの収録のために早朝、渋谷のNHKへ向かっていた。ハンドルを握っていたのは佐田本人ではなく運転手だった。義弟の新聞記者なども同乗していた。別荘の水洗トイレに不具合があり(どこも同じようなものだったのだ)一晩中、水の音が気になって眠れなかったため、佐田は車の中で熟睡していたという。
 韮崎駅を過ぎ、塩川橋にさしかかったあたりのことだった。佐田の車が前を走っていたタクシーに無理な追い越しをかけた。運悪くそこで道幅が細くなり、目の前に橋柱が現れた。避けきれなかった。車は猛スピードでそこに激突した。佐田はすぐさま病院に運ばれたが、まもなく息を引き取った。事故に巻き込まれた数人の人物のなかで佐田ひとりが死んだ。
 親友だった高橋貞二(『早春』『東京暮色』『彼岸花』などに出演した俳優で、彼もまた小津ごのみのニヒルな二枚目だった)が、この数年前に飲酒運転で死亡したことを契機に、佐田はプライベートでハンドルを握ることは一切しなかったという。
 享年三十七歳。小津を看取ってからわずか八ヶ月後の事だった。佐田啓二が遺した二人の子どもはもちろん中井貴恵・中井貴一姉弟である。

 実は富士に山荘を購入するまでの時期、武田一家は蓼科と同じく長野県にある志賀高原などで夏を過ごしていた。ひょっとしたら蓼科あたりで避暑をした年があったかもしれない。
 佐田は百合子のひとつ年下だった。同世代のスターの鮮烈な事故死。余計なひと言など付け加えてしまいたくなるだろう。しかし、ここでも百合子は電光ニュースのような簡潔さで、事実をたった一行記述しているだけである。
 ただ彼女は翌朝の四時には東京を発つにもかかわらず、夜遅く六本木のガソリンスタンドを訪れ、車を点検し、そこで耳にした別の交通事故のことを日記に書き加えている。佐田啓二の死について、なにか思うところはあったかもしれないが、それは誰にもわからない。