昭和三十九年八月(二)。

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画像は『海』1976年12月特別号より引用

 この頃からやがてお馴染みとなっていく人々が、日記の記述の中にちらほら登場し始める。
 家族以外の顔が見えにくかった日記の世界に小さな変化が現れ、急速に色彩を帯びていく。
 彼らは”富士日記一座”と呼びたくなるようなメンバーたちだ。たとえば管理所の関井さん、石屋のおじさんこと外川さん、工事店の社長である市川さんといった別荘周辺の住人たちのことである。
 
 その理由はふたつ挙げられるだろう。ひとつめは、山荘暮らしも長くなってきて、生活が落ち着きはじめるのと同時に、建物の不具合がいくつも明らかになり、その修繕の必要が出てきたからだ。武田家がまず交流を持った地元の人たちは、そうした修繕を受け持つ職人や工務店の人々だった。
 最初に持ち上がったのはこんな問題だ。

便所の臭気ひどくなる。五、六日前から、臭い臭い、と主人はいっていた。昨日あたりは、庭からも臭気がやってくるので、仕事部屋の雨戸は閉め切りにして、一日中電気をつけていたが、家の中の便所からも、臭気は廊下を曲り、階段を上ってやってくるので同じこと。昼も夜も臭い。うんこそのものの臭いというのではなく、少し粉っぽいような、ドブの臭いの混じったような、化学変化が起ったあとのうんこの臭い。(八月七日)

 下水道が普及する以前、街の中をバキュームカーがたくさん走っていた頃のことを覚えている世代なら、百合子の臭気の表現───少し粉っぽいような、ドブの臭いの混じったような───を読むだけで、あの臭いが一瞬で蘇ってくるのではないだろうか。
 百合子は「あたまがわるくなってくる臭いがする。うちの商売、あたまがわるくなると困る商売だから、すぐ直してくれ」という、いかにも百合子らしいユニークで切実なクレームを管理人に入れた。

 翌八日、修理にやって来たある職人の”フン闘”によって、浄化槽のパイプの継ぎ目に破損箇所が発見され、そこから汚物が漏れて土の中に染みこんでいた───という原因が無事に突き止められる。

 これ以降も武田山荘では至るところに不具合が出てくるけれど、そのほぼすべてがずさんな初期工事と設計上のミスが原因だ。今なら大きな問題になりそうな建物トラブルばかりだが、この時代は建てた方も住んでる方もどこかおおらかで、文句は言いながらも、地道に直して住みつづけた。

 もうひとつはそうした修繕と平行して行われたさまざまな改良工事だった。
 もともと建て売りの別荘だったし、不満や不便の多かった反動で、そのまま住むのがすぐに味気なくなってしまったのだろう。購入したばかりだから本格的なリフォームとまではいかないが、自分の希望に沿った形で建物に手を加えていった。特に泰淳はそうしたことに熱心で、湧いたイメージやアイディアをスケッチしたりしていた。まるで秘密基地に凝らす趣向を考える子どものようである。修繕作業で面識ができた職人たちにスケッチを見せ、相談をしながら形にしていった。
 その手始めが石垣だった。

関井さん[管理所の人]が来たので、浄化槽のまわりから庭にかけて家をとり囲むような石垣を造る見積りをしてもらう。石屋の小父さん来る。六万七千をもう少しまけないかというと、うしろ向きになって鉛筆をなめなめ、手帳に何か書きつけては、「ううう、ううう」と息のような、声のようなものを洩らしながら、しばらく思案してから、こちらを向いて「六万五千にする」という。(八月九日)

 石垣はお盆に開かれる村祭りの前に完成させるという約束になったので、次の日から石屋たちはすぐ工事を始める。またこの日は山荘を建てた建設会社の人、大工もやって来て、百合子が不満に思っていた硝子戸の立て付けや羽目板も修理させている。
 そうした職人たちが休憩するときには、百合子が軽食やおやつ、時にはビールなどもふるまい、夫妻は彼らとおしゃべりに花を咲かせた。

 しかしお盆までは数日しか無く、急ピッチで石垣は仕上げられた。いくら涼しい避暑地とはいえ真夏の工事はさぞやきつかっただろう。百合子はこうした人たちの働く姿よりも、彼らの休息の取り方に強く興味を惹かれたようで、鼻をこすりつけんばかりに近づいていき、仔細に日記へ記録している。

工事の人たちにスイカを買って食後に出す。工事の人たちは、十時に一回、昼食後に一回、三時に一回、きちんと必ず休憩する。休憩する時は、大きな松の木の根元や軒下に新聞紙を敷いて、真直ぐに仰向けになり、顔に手拭をかけて死体のようになって全員眠りこける。そして二十分ぐらい経つと急に起きて、いきなり働き出す。(中略)工事の人たちは、何が好きかというと、水気のあるもの───スイカ、果物のかんづめ、ゼリーなどが好き。工事の人たちの持ってくる弁当箱には、ごはんがびっしりお餅になってしまったように詰まっていて、もう一つの同じ位大きい弁当箱には、ほうれん草か小松菜らしいおひたしが、これもびっしり詰まっていて、袋の中から日水のソーセージなどを出してかじりながら、実においしそうに食べる。そして女衆たちは大きな声でワイ談したり、村の近所の人のわる口をいったりして、ときどき空の方に向って大笑いしている。(八月十三日)

 そして予定どおり、八月十四日に石垣は完成した。その日の職人たちはいっさい休憩も取らず、黙々と働いた。お盆休みに入る彼らのための祝宴もこの日のうちに開かれた。
 こうしてできあがった石垣は、冒頭に転載した泰淳のポートレートに写り込んでいるものがそうだと思う。モノクロなので色は推測しかできないが、地面の色よりだいぶ濃い色合いなので、おそらく熔岩を使ったのではないだろうか。写真の泰淳は晩年の姿だが、実にどっしりとした立派な作りの石垣である。

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 ちょうどこの時期に東京から山荘へ初めての来客がやってきた。

岩波の海老原さん来る。石垣工事の人たちや羽目板はりの大工さん二人が、仕事をしている最中に、ひょっこり現われる。<ここの地元の人たちのなかには海老原さんそっくりの声の人がいてるなあ。話し方もそっくり>と感心して、ふり向いたら、海老原さんがキョトンとして大工さんや石垣人夫の中に佇っていた。(八月十一日)

 岩波の海老原とは誰だろう。
 日記にハッキリとした記述はなかったけれど、これは海老原光義(えびはら・こうぎ)でまちがいないと思う。
 海老原は一九四一年に中央公論社へ入社し、戦後に岩波書店へ移った編集者だ。中央公論社では雑誌『中央公論』を、岩波に転じてからは雑誌『世界』や『岩波新書』の編集長として活躍した。退社後は戦中に起った「横浜事件(海老原自身もこの事件の余波で廃刊となった当時の『中央公論』に席を置いていた)」の再審裁判を積極的に支援した。一九一九年生まれ、一九九九年に80歳で病死。

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 雑誌『世界』で泰淳は「政治家の文章」という連載を一九五九年九月から一九六〇年四月まで全八回続け、一九六〇年に岩波新書から出版している。

 海老原の来訪した翌日の十二日も二人の客が山荘に来た。

文春の青木さんと竹内実さん、前十時ごろ来る。竹内さんが写真機を持ってこられたので、石屋の小父さんや女衆たちと私たち全員並んで記念撮影してもらう。竹内さんは石屋さんたちに実に物静かにていねいに挨拶なさるので、石屋の女衆たちは、ぼーっとしていた。(八月十二日)

 物静かで丁寧な竹内さんの態度に百合子までつられて「挨拶なさる」と敬語になっているのがおかしい。このときに撮られた写真も見てみたいが現存するのだろうか。

 竹内実(たけうち・みのる)は学者で、一九二三年に中国山東省で生まれ、二〇一三年に亡くなった。戦後に京都大学で学び、そのあと東京大学大学院へ進んだ中国文学のオーソリティーである。
 この来訪の目的は百合子が記述しているが、泰淳と竹内の共著で毛沢東の詩集を出版する計画があって、その相談だった。実際にそれは『毛沢東 その詩と人生』という本となり、翌年に文藝春秋から出ている。ちなみに竹内は一九六〇年、毛沢東本人と会見したこともある。

 泰淳は、一九三七年に起こった日中戦争に従軍し、二年間を中国戦線で兵士として戦った。第二次大戦後には自らの従軍体験を元にしたと言われる小説『審判』を書く。この小説の主人公は戦地で二度の殺人行為に手を染める。それが泰淳自身の体験だったか否かは、親友の埴谷雄高や竹内好が問うても、はっきりと答えなかったという。
 一方、泰淳の11歳年下である竹内は学徒出陣したが、終戦直前に病気が原因で除隊したため戦争には行かずにすんだ。そんなことを頭に入れて、日記の続きを読むとまた別の味わいがある。

ビールを一杯皆で飲んだ。毛沢東の話はあまりしないで、戦争の頃の話などした。
 私「今度戦争がはじまったら闇を一杯するんだ。この前のときはまだ女学生だったでしょ。自分では何もできなかったけど、闇のやり方は見ていたから今度はできる。政府のいっていることと反対のことをやるようにする(中略)」
 竹内さん「ぼくは中国生れでしょ。中国育ちで、この前の戦争のときは物資不足とか食糧難とか買出しとか、内地の経験がないでしょ。闇の買出しなんかできるかなあ。とてもできそうもないですねえ。心配だなあ。そうなったらやり方が分らないし、大へんだなあ」と、おだやかなゆっくりした口調でいう。竹内さんは上品だなあ。(同日)

 育ちの良い竹内さんの言葉に感心する、タフで呑気な百合子───そんなイメージをして、つい笑ってしまいそうになる。
 しかし、百合子自身も両方の兄を戦地に送り出し、病に臥せっていた父親を一九四四年に失っている。そして一九四五年五月二九日の横浜大空襲で家を焼け出され、九死に一生を得た。また百合子の実家の鈴木家はいわゆる不在地主だったことから、戦後の農地解放によって財産をすべて失い、没落した。

 終戦から二十年近く経っていたが、なによりこの会話がなされた日は敗戦が事実上決定した八月十二日である。この一見、呑気な会話の裏側にある凄みのようなものは、日記を追うだけではわからないだろう。もちろんそうしたバックグラウンドをいくら綿密に調べたとしても、彼らの心情を100パーセント理解した気になど決してなってはいけないのだが。