[第三十回] YURIKO TAIJUN HANA 〜武田百合子『富士日記』の4426日。

昭和四十年十二月(1)

 先日、京都の書店、誠光社に行ったとき、梅崎春生の随筆や短編小説のアンソロジー『怠惰の美徳』(作家の萩原魚雷が編者)を店頭で見つけた。『富士日記』と同じ中公文庫から2018年2月末に発売されていた。ぜんぜん知らなかった。
  1965年7月に肝硬変で急逝した梅崎の死を、武田家の全員が重く受け止め、悲嘆するシーンは『富士日記』上巻のひとつのピークだ。もちろんぼくも自分の本(第1巻)の中で取り上げた。だが、梅崎の本はこれまで1冊も読んだことがなかった。
 泰淳もそうなのだが、俗に〈第1次戦後派〉と呼ばれる作家たちの本は、古本屋で見かけてもなかなか積極的に手が伸びない。彼らの作品のタイトルがやたらといかめしいのも原因だと思う。梅崎の代表作でいえば『幻花』『狂ひ凧』『拐帯者(いったいなんと読むのだろう?)』のように、書名をパッと見ただけでは中身を推察するのも難しい。また、装丁も非常に地味というか、読まずとも持っていたいというコレクタブルな欲求も掻き立ててくれることがなかった。そのわりに高価なものが多い。
 かたやこの文庫は装丁も魅力的だし、帯文や裏表紙の短い紹介文をさっと目を通しただけですぐに買い求めた。そして帰りの高速バスのなかでじっくりと読んで───驚愕した。もちろん嬉しいほうの驚きである。
 読み進めている途中なので感想は省くけれど、収録されているエッセイも小説も、今の自分がもっとも読みたいタイプの作品ばかりが収録されていた。興味をそそられた方は、ぜひご一読いただけたらと思う。

 さて、百合子は誰かと交わした些細な会話を日記の中によく書き留めている。関井さんや外川さんやスタンドのおじさんといった男性陣との会話からは、親密であたたかな雰囲気を文章の中から組み取れるのだが、女性とのそれはどちらかと言えばドライで、もっと言うと冷たく、辛辣な印象を受ける時さえある。同性としてのシンパシーも希薄だし、また彼女らの顔の見えるような書き方になっていないことが多い気がする。例えば、この12月最初の日記のなかに登場する、葉茶屋のおばさんとの会話なんかもそうだ。

 中に入っていって「ごめん下さい」と五回ほどいうと、奥からおばあさんが出てくる。定休日でも売ってくれる。「───さんのお人かね」と訊くので「ちがう」と答えると、不思議そうに、じいと顔を見ているので「一合目の下のゴルフ場の近くから下ってきたら、定休日でどこも閉まっている」と言うと「山は寒いかねえ。おフジさんに雪があると、あの辺は寒い風が吹くでねえ。えらく寒いかねえ。何しにきていなさる?」と訊く。(十二月一日)

 どう答えたか、という記述はなく、ここでバサリと会話の記録はカットされ、シーンは次の場所───酒屋(日記では「ビール屋」)へとあっさり移行してしまう。

 「この間の夜、河口湖の向う側からゴルフ場の方をみたら、灯りが綺麗についとって、ありゃあ、ずい分住まっとりなさると言ったら、あれは道路についとる灯りじゃそうでなあ、今ごろは寒いで、もう誰も住まっとらんでと言われた。奥さんはずーっと来とんなさったかねえ」と言う。(中略)「夏になったら、来年は遊びにいらっしゃい」と言うと、おばさんは大きな声を一層大きくして「是非なあ。是非、よばれたいでなあ」と喜んだ。そして葉茶屋のおばあさんと同じく「山は寒いかねえ。いまごろは」と訊いた。これは、この辺の人の、冬になるとする挨拶のようなものかもしれない。今日は誰もいないから、一寸こたつで休んで行ってくれろと、おばさんは強硬にすすめたが、上りたくなかったので断る。(同日)

 これはぼくの偏見かもしれないけれど、なんとなく彼女らのことを警戒するような、あるいは少し見下したりしているような視線を感じてしまうのだ。もちろんそんな気がするからといって、百合子を糾弾しようなどという気持ちはさらさらない。なにしろこれは彼女のプライベートな日記なのだ。それを覗き見させてもらっているだけなのだ。言い訳するみたいだが、ぼくは「自分がなぜそう感じるのだろう?」と考えるきっかけにしているだけだ。
 
 年配の女性との関わりを書いた百合子の文章で思い出すのが『ことばの食卓』(1984年)に収録されている「牛乳」というエッセイだ。幼いころ、虚弱体質で食べ物をよくもどしていた彼女は、早くに病死した母に代わって自分を育ててくれていた祖母との牛乳にまつわる思い出をこの文章の中に綴っている。

 長火鉢にかけた土鍋の中を、おばあさんは見つめて待っている。牛乳に膜が張ってくる。チカチカと皺が走ってきたとき、骨太い人さし指で皮をついてひき上げ、開けた口をもっていって、ずるっとしゃぶる。「ほんとは、ここが一番のクスリのところ」そう言ってから湯呑に注ぎわける。私と二人の弟は、お風呂から上ると牛乳を飲まされる。(「牛乳」)

 からだを丈夫にする薬だと言われて、風呂上がりに飲む温かい牛乳の味はけっして好きになれるものではなかった。母親代わりに育ててくれるという恩を感じながら、どこか不気味で少し近寄りがたい存在として、百合子は祖母のことを捉えていたのではないか。

 つれあいに早く死に別れたあと、一人娘も亡くしたおばあさんが、事細かに繰り返す仕方話は、娘が生れたときと死んだときのことばかりだったから、私は朧気に、赤ん坊は固いうんこみたいに生まれるのだ、と考えていた。(同上)

 彼女の女性観というものが、どう形成されていったかという点において、この祖母の存在はとても大きな影響を与えている気がしている。

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