昭和三十九年七月(三)

七月二十日(月)くもり
午後、花子と河口へ買出し。月曜日は湖畔の商店は一斉休業日だったので、うまく買物ができない。

 武田山荘のある富士桜高原別荘地からもっとも近い町は、ここに書かれているように河口湖町である。前日に引き続き、百合子たちは買い物に出かけた。1964年当時と今では、さすがに道路状況は大きく異なっているだろうが、約7km、車で10分ちょっとの距離である。

 中心である河口湖駅から歩いて10分くらい進めば、すぐ目の前に河口湖畔が広がっている。位置的には湖の南岸にあたる場所で、ここにある名所「畳岩」は、富士山から数千年前に流れ出た溶岩流が、河口湖の水で冷やされて出来あがった。溶岩流の最先端部が畳のように広がって固まったことから、その名で呼ばれている。
 昔も今も湖畔を取り囲むように無数の旅館やホテル、レストラン、お土産屋などが立ち並んでいて、遊覧船の船着場もここにある。現在ではアンソレイユ号(フランス語で「日当たり良好!」の意)という、木造タグボートを模した定員120名の立派な船が観光客を載せ、毎日この付近から発着している。

 百合子たちが足繁く通っていたころは、観光地としてはまだまだ黎明期だった。しかし道路や鉄道と一体化した大規模な開発が功を奏して、首都圏からの観光客で大いに賑わっていたことは、百合子の日記だけでなく、目にした他の資料からも伺い知ることができた。

湖畔に車を停めたら、モーターボート屋が二人、ぴったり車にくっついて、千五百円のを千円にまけるから乗れといった。しゃがれた声の陽にやけた男で、もう一人の男はミツクチだった。二人とも船乗りのかぶる白い陽覆いのついた帽子をかぶっている。あとからきた車の男の人が断ったら「お前は花柳病で病院から昨日退院してきたのだろう。気が狂ってるな」と悪態ついていた。

 ボート遊びをちょっと断っただけでここまで悪しざまに罵られるとは……車の男の人、かわいそうすぎる。ちなみに花柳病とは花柳、すなわち遊里や郭で遊ぶことで伝染る病気=性病を意味する。

 さて、この日の河口湖畔で思うように用事が果たせなかった百合子と花。ある場所へ寄り道している。

富士ラマパークに行って、本当の富士山の百分の一(?)に作ってある小さな富士山に登って、富士山の内部の熔岩や、大昔の富士山のパノラマを見て帰る。へんなところだねえ。

 百合子も呆れた富士ラマパーク───いったいなんだろう。
 結論から書けば、これは現在の富士急ハイランドである。
 富士観光開発が河口湖周辺における観光の目玉として計画した、一大レジャーパークだ。1964年7月8日開業なので、百合子たちはそれから二週間も経たずに訪れたことになる。
 富士ラマパークのネーミングは、アンデス原産のあの動物が由来ではなく、富士のパノラマを一望できる場所=富士ラマということで、考え出されたと想像するがどうだろう。
 この場所にはもともと富士五湖国際スケートセンターという巨大スケートリンク(1961年開業)、宿泊施設(ホテルマウント富士、1963年開業)が営業しており、そこに富士ラマパークが付帯施設としてあとからオープンした。
 JR大月駅から富士吉田駅までの23.6kmをつないでいた富士急行線を、1950年に河口湖駅までの3.1km延伸した。そしてスケートセンターの開業と共にハイランド駅を、また富士山有料道路(通称:富士スバルライン)が河口湖から富士山の五合目まで開通し、バス路線が開かれたのも、この1964年のことだった。百合子たちが山荘を構えたこの年は、富士周辺が新しい観光の時代を迎えた、まさにその頃だったといえる。
 富士ラマパークには遊園地やボーリング場などの遊戯場と共に、百合子たちが訪れた富士山をテーマにしたミュージアムなども併設されていた。
 話題の施設ということで、おそらく百合子や花は大いに期待して訪れただろうが、彼女たちが楽しんだ様子は日記からまったく伝わってこない。先ほど引用した一文も、この吐き捨てるようなひと言で締めくくられる。

明治スカットが一本七十円もする。

 明治スカットは明治製菓が今も販売を続ける炭酸飲料水のロングラン商品である。現在は缶入りになっているが、当時は瓶入りだった。
 発売開始時期はよくわからないが、おそらく1970年代のことで、オレンジ、グレープ、レモンなど何種類かのフレーバーがあった。
 ぼくも近所の駄菓子屋の冷蔵庫で見かけた記憶はあるけれど、飲んだ覚えがまったくない。コカ・コーラやファンタではなく、あえてマイナーな飲み物に小遣いを使うほど裕福でも、酔狂でもなかったから。
 このスカットが当時いくらで販売されていたのかも、明確に調べが付かなかった。しかしコカ・コーラやファンタは昭和四十年代に30円から35円くらいで販売されていたという。
 こう考えると、富士ラマパークのスカットひと瓶70円は、定価の二倍の値が付けられていたことになる。
 昭和の消費者物価を調べてみると、昭和39年のそば・うどん一杯は50円。単純に計算すると物価は10倍違う。今の感覚で言えば、300円くらいする飲み物が600円で販売されていたようなものだ。これは百合子でなくても、高いと憤って然るべきだろう。

 そんなことを調べているうちに思い出した───当時、飲み終わったジュースやビールの空瓶をまとめて酒屋なんかに持って行くと、デポジットでお店の人から返金してもらえたのだ。子ども時代のぼくも、母親の手伝いやちょっとした小遣い稼ぎとして、せっせと瓶を近所の商店へ運んでいた。
 周囲にある自然の山や森林などの景色自体を庭園の設計に組み込み、調和させることを<借景>と呼ぶが、他人の記憶を借りて自分の記憶を鮮やかによみがえらせることも、ある種の借景だろう。昭和の子であるぼくにとって『富士日記』はそんな借景の宝庫だ。

参考資料:富士急行株式会社HP

skattIllustrated by A.M.