[第二十六回]ゆりこ、たいじゅん、はな〜武田百合子『富士日記』の4426日。

昭和四十年十月(二)

 6日、百合子は食料品の買い出しのついでに、昭和の家庭でしばしば見られた懐かしいものを買っている。

オガライト(おが屑で作った固形燃料)一箱百円(十月六日)

 オガライトとはおが屑を棒状に固めた一種の固形燃料。長さ30cmほどの大きなちくわぶのような形をしている。ぼくの実家の風呂も、たぶん昭和50年代の初め頃までは、屋外にある炉にこれをくべて沸かしていたと思う。今でもアウトドア用品として販売されているらしいから、ごぞんじの方もいるかもしれないが。

 気象庁のサイトでこの時期の天候をチェックしてみると、たしかにこの前後は昼間の平均気温が20度前後なのに対し、最低気温は0度近くまで下がっている。大変な温度差だ。

 翌7日は給油に出かけたいつものガソリンスタンドでの出来事やスタンドのおじさんから聞いた話───壁にかかったまま、長いこと売れ残っていた大きな額入りの富士山の絵2枚が彼女の目の前で売れたこと、また別荘地の周辺が戦後いかに高騰し、そのどさくさに私腹を肥やした人間が山といる……といったエピソードを百合子はかなりの長文で丁寧に書き留めている。
 そして、そのまとめのような感じで、以前、別荘の石垣工事で職人たちがやってきたときのことを回想している。

女衆たちは、朝くると仕事にとりかかる前に、腕から時計を外して、ていねいに松の枝にぶら下げた。女ものの華奢な金時計が、キラキラといくつも松の枝に下っているのを私は羽衣伝説のように眺めた。(中略)それから、昼ごはんどきに「いまどきゃ千万なんど金のうちに入らねえずら。億が金ずら」と、こともなげな朗らかな声が門の方の草むらの中から聞えてきた。あの女衆たちも億万長者か、それに近づいている人たちなのかもしれないのだな。(十月七日)

 スタンドの帰り道、百合子は以前から行ってみたかった富士ヶ峰の奥まで車を走らせ、大室山のふもとのあたりに出た。大室山は青木ヶ原樹海の南側あたりで、周囲には大室洞穴、神座風穴、本栖風穴などがある。見晴らしの良い場所だったようで、紅葉の始まった樹海、本栖湖や一面の芒原が一望できた。その芒原のなかに、ひとりの中年男性がぽつんと立って、樹海の方を眺めていることに百合子は気がつく。

そばに、にわとりが五、六羽いる。開拓村らしい。痩せた乳牛が一頭、転んでしまったような風に寝転んでいて起きられないみたいにみえる。ブロックを半分ほど積んだまま、夜逃げでもしてしまったような、建ちかけの空家がある。中に子供のゴム靴がある。それと似たような小さな家が屋根にテレビのアンテナをつけて、ぽつん、ぽつんとある。空気はよくて、静かで、正しい生活をしている、と思うが、何ともかんともわびしい。(同上)

 都会からやってきた人間のために石垣を組む職人や女たちが、実はそれなりの資産を持ち、休みの日には町のデパートで宝飾品などを買い漁っていること。そのいっぽうで、正しくも、侘びしげな生活を送る人たちも同じコミュニティのなかにいる。
 百合子自身も富士に立派な別荘を構える作家の妻だ。華美ではないけれど、当時の一般的な水準から見れば、じゅうぶん豊かな生活を送っている。だからこそ、彼女は前者に対する批判めいた言葉を書きはしない。しかし、この日、彼女の胸に去来した思いは、夕餉の食卓で泰淳に言ったこのひとことから窺い知ることができる。

開拓村の話をして「人間は平等ではないねえ」と私は言った。(同上)

スタンドのおじさんの話に押し出されて、7日の日記に溢れてしまった別のことを百合子は8日の日記に追記している。〈オガライト工場の人のオガライトについての話〉と題名がついていて、オガライトを買いに出かけたときに聞いた話のようだ。

オガライトは英名である(と、その人は言う。でも、どうも怪しい。オガはオガ屑のオガではないかと私は思う)。製材所のオガクズを集めて乾燥させると、煙がたつほどに乾く。それを高温で煉ると、何にも混ぜないでも、木自身の成分のために、固まってオガライトとなる。その高温は非常なる高温のため、石炭などでは駄目。オガライトを燃やして、オガライトを作る。(中略)オガライト工場の人といっても、工場にはその人一人しかいない。(中略)「オガライト屋は言葉つきはおごそかで恭々しく、顔も体もヤサ男」と報告すると「田舎には、そういうやつがたまーにひょこっといるもんだな」と主人言う。(十月八日)

 製材の過程で出るおが屑がうまく再利用され、自身から出す熱によって生み出されるオガライト。百合子が出向いた工場も、きっと今はもう無いだろう。しかし、放っておけばゴミになるものが、貴重なエネルギー源となるのだ。日めくりカレンダーのように終われば棄て去られていくだけのありふれた日常もまた、こうして丹念に綴られたことによって大切な読み物に変わる。

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