昭和四十年八月(二)

どういうわけか、この夏の訃報の連鎖は止まらない。泰淳と百合子が全裸で本栖湖畔を泳いだ日の夜、またも親しい人の死の知らせが届く。
 

おそい夕飯のあとかたづけをしていると、豆粒のような灯りの懐中電灯をちらちらさせながら、笑い声の男と女、勝手口へ下りてくる。電報配達の男に、女が一緒に遊びがてらついてきたらしい。
 タカミサンシス ソウギミテイ モリタ(八月十七日)

 タカミさんとは作家の高見順のこと。彼もまた日本文学界における忘れられた文豪のひとりかもしれない。作品を読んだことのある人よりも、タレントの高見恭子の父親として知る人が多いだろう(いや、もはやそんな人すら少ない気もする)。
 この日、食道がんで亡くなった高見の訃報は、梅崎春生の時と同様に、朝日新聞の担当編集者だった森田正治が電報を送った。翌日、百合子は朝日新聞へ電話をして、告別式の日程や時間などの詳細を問い合わせる。

 その後、彼女は花といっしょに山中湖へ泳ぎに出かけた。お盆が過ぎるとめっきり人出も少なくなっていたため、愛犬ポコも連れて行った。ポコは見慣れない人を見るとみさかいなく吠えるため、観光客の多い時期には連れて行けなかったのだろう。
 

おにぎりを食べてから、マウント富士(ホテル)へ上って、ホテルのプールの使用料を聞いてみる。大人五百円とのこと。湖はタダだからな。(八月十八日)

 20日、告別式出席のために帰京し、翌日には別荘へトンボ返り。高見順の葬儀に関する記述はなし。

 東京からの帰り道、雲行きが徐々に怪しくなる。これは比喩ではなく、ほんとうの天候悪化。
 台風(百合子は〈颱風〉と書く)が別荘に近づいてきたのだ。前年の日記には別荘不在時に襲来した台風のせいで室内に湿気がこもっていた……という記述はあったが、台風に関する記録は見当たらなかった。つまり一家にとって、この別荘で体験した初めての台風だったかもしれない。21日から22日にかけては何度も停電をくり返したり、〈富士砂〉と呼ばれる溶岩砂の地盤が大量の雨で道路が崩れ、管理所の人たちがその補修に追われた様子が書き込まれている。

 23日には台風一過で晴れ間が戻る。日差しも真夏に戻り、暑くなったため、さっそく百合子たちは山中湖へ泳ぎに出かける。

嵐のあとで湖水は茶色く濁り、藻がおびただしく浮いている。マウント富士へ上ってプールに入る。プール大人五百円、小人三百円。ホテルは閑散としていて、プールにいる人たちは、外来の、プールにきただけの若い人が多い。陽射しがつよいので、底をコバルト色に塗りこめたプールはまぶしく明るい。プールの水は、びっくりするほど冷たく、少し泳ぐと手足がしびれてくる。(中略)もう夏も終わりなのだ。(八月二十三日)

 台風のせいで湖水が汚れていることを言い訳にしているが、きっと百合子は一度ホテルのプールで泳いでみたかったのだと思う。
 マウント富士……正式名称〈ホテルマウント富士〉は富士急グループ所有の大型宿泊施設で、HPによると1963年7月の開業。この頃はまだ出来て二年ばかりの新しいホテルだった。
 富士山の眺望が最大の売り物。巨大な中庭があり、百合子たちが泳いだプールは当初野外にあったが、1990年代に温水室内プールへリニューアル。代わりに露天風呂のある温泉入浴施設が整備された。

 24日、25日の両日も百合子と花は夏の名残を惜しむように、連日、山中湖へ行く。

水は澄んでいるが、風があって少々寒い。ボーイスカウトの一団が泳ぎにきている。水が冷たいので、ヨットの舟着場に腰かけて、脚をぶらぶらさせている若い人が多く、水に入っている人は少ない。岸の砂地の空いたところで、ブラスバンドがジャズを鳴らしていた。間の抜けた音が空中に拡がってゆく。おにぎりを食べて帰る。(八月二十四日)

 奇しくも1986年から、あのマウントフジ・ジャズフェスティバルの会場として、ホテルマウント富士の中庭が使用された。余談だが、このイヴェントの初回の司会はタモリが務めた。富士山と夏とジャズの〈前奏〉は、この日から始まっていたのかもしれない。

 26日は昨年同様、百合子と花の二人で吉田の火祭りを見物している。
 火祭りといえば、24日の日記にもこんな記述があった。

吉田の町は火祭りの大たいまつの支度で忙しい。大分、出来上ったたいまつがおおくなってきて、坂道に沿って、家々の軒近くに、シメナワをまわして転がしてある。(八月二十四日)

 吉田の火祭りの正式名称は〈鎮火大祭〉。富士山の山じまいを祝う祭りで、日本三大奇祭のひとつと言われている(他のふたつは秋田のなまはげ柴灯祭、そして長野県諏訪大社の御柱祭)。しかし、ぼく個人の感覚で言えば、奇祭というほどの奇妙さは感じられない。ただし、その勇壮さは写真を見ただけでも伝わってくる。百合子が目にした松明は高さ11尺……すなわち3メートルオーバーもあり、住宅の軒先をゆうに超える。そんな大きさの松明が約2kmの範囲内に70本以上設置されて、祭りの際には一斉に火が灯される。もちろん火の粉は屋根を超えて飛ぶ。火事にならないのが不思議なほど……なのだそうだ。
 また、祭りの準備を行う〈世話人〉たちの苦労は半端なものではなく、〈祭礼の行われる8月ともなれば、約1か月間にもわたって自らの仕事も休み、祭りの準備に忙殺される〉〈近年はなかなかその志願者がおらず、確保に苦労しているのであるが、その重責を果たし終えた後の感激にはひとしおのものがあり、祭りが終わって神輿を納めた後、随神門の前で彼らが男泣きに泣く〉(公式サイトより)というから、とにかく大変だ。

 毎年8月26日と27日に開催と決まっている。泰淳は湖上祭に続き、不参加。新聞連載の締め切りに追われて、お祭りどころの騒ぎではなかったのかもしれない。
 
 百合子たちは会場に着いた夕方から終電の9時半までの短い間に、松明の火を見て興奮したのか、かなりの散財をしている。

綿菓子二袋(二本ということ)百四十円。おでん二本、三十円。
浅間神社お札三枚、九十円。
ゴロ三本、四百五十円。
果物野菜、四百円。
火餅、百円(火祭りだから、火餅というだけ。何となく大福のようだと怪しんだが、帰ってきて食べてみると、やっぱり大福)。
タコ焼き、百円。
電車賃往復、八十円。

 総額1390円。現在の物価に換算するといくらくらいだろう。試しに計算してみる。
 河口湖〜富士山駅の運賃が大人ひとり220円、小人110円。往復で660円になる。二人の電車賃が80円なので、ここだけ比較すれば、8.25倍。
 浅間神社の御札は値段(初穂料)は調べがつかなかったが、今だとだいたい一枚500〜700円くらいだろうか。3枚で90円はちょっと安すぎる気もするが、だいたい16倍。
 タコ焼きはだいたい500円くらいのイメージなので5倍。綿菓子も今だとひとつ500円くらいなので、7.15倍。平均してだいたい9倍というところか。
 ちなみにこの年の大学初任給の平均が23,000円。現在はだいたい20万円くらいなので、だいたい9倍だから、この計算で概ね近い物価感覚になると思う。
 ということは、この日の支出1390円を9倍すると、現在なら単純計算で12,510円も使ったことになる。夏祭りに親子二人で出かけて、約12000円も使ってしまう主婦がいたら、その人の金銭感覚はだいぶ狂ってると言えないだろうか?
 しかも2日後の29日には、河口湖の土産物屋で1,200円のタオル、400円分の菓子、500円の石(!)、財布セット1,600円もお買い上げ。しめて3,700円の出費である。このたった2日だけで、大学初任給の4分の1を生活必需品以外に出費できるというのは、当時の武田家の家計によっぽどゆとりがあった証拠だと思う。

 ちなみに3本450円で購入した〈ゴロ〉というのは馬具の一種らしい。馬車を曳く馬の尾っぽが垂れないようにハメる木製の大きな数珠のようなもの……だそうだが、ネット検索しても、はっきりこれというものを見つけることはできなかった。富士吉田周辺だけで使われていた道具なのか、はたまた全国的に使われているけれど、まったく違う呼び方なのか、それも調べはつかなかった。おそらくはポニーテールの女の子がしている髪留めを大きくしたようなものなのだろう。
 それで、こんなものを買ってどうするのかと思えば、こういうことだった。

一日中、ゴロの珠一つずつに色を塗って遊ぶ。主人はお経の言葉を赤い字で書いた。私はそういうのを知らないから、西遊記を見ながら、出てくる怪物や樹の名前や土地の名前や景色の有様などの言葉を、朱色で書いた。花子は緑色と朱色で同じ模様の珠をいくつもつくった。

  花子の夏休みが31日に終わることから、一家は30日に帰京することに決める。29日は8月最後の日曜日であり、家族にとって富士で暮らす、この夏休み最後の一日となった。この日は片付けなどの雑事に追われ、さすがに泳ぎに行くことはなかった。

夜は、短かった、永かった、夏のもろもろのあと片づけである。二度目の夏、山の食物つくりも馴れたし、買出しも無駄をしなくなった。今年は去年より、よく泳いだ。ニスをかけたような私の顔と手足。冬になるとソバカスがふえているのだろうな。
 夜は、いなり寿司を作る。明日の焼きにぎりを作る。また一年経つまで、夏は終り。(八月二十九日)

 子どもを持つ友人たちから「夏休みは子どもたちが一日家にいるから、手がかかって大変」ということをよく聞く。しかし、この百合子の一文をには主婦としての実感もこもってはいるけれど、富士山麓の短い夏を存分に楽しんだ子どもが、夏休みの日記の最後の1ページとして書いた文章のように見えてしまう。