昭和四十年八月(一)

池田前首相がガンで亡くなった。ほかの人は死なない。(八月十三日)

 身近な人の訃報が相次いだ7月。じつはこのあとも百合子や泰淳のもとに次々と訃報が飛び込んでいた。
 ひとりは江戸川乱歩(7月28日)で、もうひとりは谷崎潤一郎(30日)。
 子供の頃から乱歩の愛読者だった百合子は”遥拝(=はるか遠くの場所にむかって拝むこと)”で追悼する。
 谷崎は8月3日に告別式が決まったため、また東京へ戻り、泰淳とともに葬儀へ参列することになった。
 
 8月に入ると、ますます人出が増える富士山周辺。折からのマイカーブームで観光客も特に激増していた。
 そんななか、百合子と花は山中湖にせっせと通い、泳ぎまくっていた。

二人とも、湖と車の中で陽にやけて、茶色の革靴のようになった。(八月一日)

 8月17日の午前中は夫婦で列車便を出しに行ったついでに、本栖湖へ寄り道。ふたりはボートに乗る。人のいない入り江を見つけてボートを停め、夫婦仲良く全裸で湖を泳いでいる。

水は澄んでいて深く、底の方は濃いすみれ色をしている。ブルーブラックのインキを落したようだ。そのせいか、主人の体は青白く、手足がひらひらして力なく見える。私は急に不安になる。私も真裸になって湖に入って泳ぐ。(八月十七日)

 絵葉書のように……をいつも心がけて書く百合子が、めずらしく〈不安〉という言葉を使っている。誰もいない湖の岸辺で泳ぐ全裸の作家とその妻。エロスとタナトスの気配。

 3日、葬儀へ参列するため東京へ戻る際には、外川さんが同乗した。東京の電電公社へ長男の就職するが決まり、今後のことを頼みに、池袋の妹へ会いに行くというのだ。ついでに乗せていく話がまとまり、朝早く、外川さんの家まで百合子たちは迎えに行く。

まもなく外川さんは、背広を着て、ワイシャツにネクタイを結んで、革靴をはいて出てきて乗る。外川さんの正装をはじめて見る。渋谷の駅、ハチ公の前で降ろす。(八月三日)

 谷崎の葬儀に関する記述は特になし。翌4日午後、東京から山荘へ戻る。
 5日は外川さんの招待で河口湖のお祭り〈湖上祭〉へ。泰淳は急に気が乗らなくなったか、それとも体調が思わしくなかったのか、家で留守番することになる。武田家全員で来て欲しかった外川さんは大いに落胆。

 湖上祭の歴史は1917年(大正6年)に始まるというから、今年でちょうど100周年を数える。元・薩摩藩の島津公爵がこの地に別荘を立てたことが、観光地としての河口湖を全国的にアピールするきっかけになった。その感謝の意として、地元住民が灯籠流しや花火を打ち上げたのがはじまりだという。昭和2年からは8月4日に前夜祭、翌5日に本番と日程が固定化され、現在もその日程で開催されている。

 百合子たちが出かけた日も見物客で周囲はごったがえし、外川家の敷地に車が入れられず、外川さんの適当な誘導で近所の農家の庭先に停めることになった。

外川さんは少し先の右側の小さな農家へ入って行き、しばらくして「オーライ」と手を振ったので、少し前進してから、農家の入口めがけて右折すると、そこは車幅一杯の私道で左側は田んぼ。私の車の前にすでに千葉ナンバーの車が一台入っている。私の車が右折したのを見て、すぐ真似してもう一台あとから入ってきたので、私の前に一台、あとに一台、あれよあれよという間に一列に並んで三台入りこんでしまった(八月五日)

 百合子は千葉ナンバーの車が出られないのはかわいそうだ、今からでも外川さんの家に停めたい、と主張するが、外川さんは聞く耳を持たない。じつは楽しみにしていた「水戸黄門」の放送が始まっていて、なるたけ早く家に帰ってテレビを見たかったという真相があとでわかる。
 そして、このずさんな駐車をめぐって、ひと騒動があとで起きる。

 やがて夜も更け、外川さんは消防団の誘導部長と襟に染め抜かれた半纏を着て、百合子たちに自分の晴れ姿を見せびらかす。

私と花子は手を叩いて「ステキ」と言った。外川さんは、この出勤の場面を主人にみせたかったのだ。忠臣蔵の大石内蔵助のようだった。(同日)

 このあと外川さんが予約してくれていたホテルの座敷で西瓜を食べたり、遊覧船に乗ったり、湖畔に新聞紙を敷いて、そこに寝転びながら天高く打ち上がる花火を見物した。

花火があがって、音もなくふっと消えてゆくのを、くり返しくり返し見ていたら、梅崎さんのことを思い出して涙がでた。(同日)

 見物を終えて、なぜかおみやげに卵を6個買った百合子たちが自分の車へ戻ると、千葉ナンバーの持ち主が激怒して待ちかまえていた。

「二時間も待ったぞ。のんびり笑いながらやってきやがって」とふるえ声で噛みつくように言った。「花火見にきたんでしょう。花火見物の人は、花火が終るまで帰ってこないのはわかってるでしょ。あんたたちも花火終るまで見ていればよかったのに。花火見にきてのんびり笑いながらか歩いて何が悪い。せっかち」と、あんまりふるえ声でどなるので、いい返したら、その男は私に殴りかかろうとした。(同日)

 しんみりしてたかと思うと、すぐにケンカ。しかし、咄嗟に怒鳴られてもすかさず減らず口で切り返せるのが百合子の真骨頂。結局、怒鳴りつけた男の仲間が取りなしてくれて、事なきを得た。百合子の車の後方に停まったもう一台の自動車を四人がかりで持ち上げ、田んぼのなかに斜めにどかせた。そして、百合子の車をバックで出して、ようやく千葉の車は外に出られたのだった。

花子は「おかあさん、ほんとは私たちも少しわるいね。遅く帰ってきたからね。あの男の人ヤクザのおにいさんでしょ。おかあさんがぶたれたら負けるよ」と、車に乗ってから小さな声でいった。私は気分が少し昂揚して「ぶちにきたら、卵全部投げつけて、それから車のチェーン出してふりまわしてやろうと思って」とうちあけた(同日)

 どうしてこんな気の利いたセリフがぽんぽん飛び出るのだろう? しかもこんな立ち回りをヤクザやチンピラ相手にやらかしかねないのも百合子のすごいところだ。

 8月6日は鏡と棚とが一緒になったような家具(鏡台のようなものだろうか?)を、現物を見ること無く地元の家具店に注文。その日のうちに届いた棚は〈ヒューマニズムみたいな感じ〉だったそうだ。人文主義的な棚───よくわからないけど、じつに詩的だ(笑)。
 7日は鎌倉より佐藤密雄・治子夫妻が来訪。佐藤密雄は鎌倉の大仏で有名な高徳院の住職。1964年から65年にかけて大正大学の学長も務めていたから、ちょうどこの頃は現役だった。滞在先の山中湖ホテルからホテルのレストランに作らせた料理を持参のうえ別荘を訪ね、酒宴となった。
 佐藤住職がインドの高僧にまつわる話をしたところ、花は〈身動きもしないで、ほうけたように聞き〉入ったそうで、眠るときにも〈大仏のおじさんはえらい人なのねえ。今日のお話みたいなの、はじめて聞いた〉と百合子にしきりと感想を漏らした。どんなすごい話だったのだろうか? それは残念ながら書かれていない。
 このあと数日間はひさしぶりに落ち着いた生活が続く。百合子は夏風邪を引き、喉が痛くなったり〈低い小さな声で話す。お芝居をしているよう(八月十一日)〉、別荘の管理所近くで道に迷った旅行中の若者たちと遭遇。道案内に骨を折ったり(八月十四日)、鮭のフレークを入れたコロッケを作って泰淳にまずがられたり(八月十二日)、花を連れて富士吉田の映画館で『OK牧場の決闘』を見た。いかにも夏休みといった雰囲気の穏やかな日々だ。
 〈月江寺〉と検索してヒットしたこのブログを拝見していると、月江寺界隈の町並みは、現在も百合子たちが通っていた頃の雰囲気をそのまま残しているようだ。もちろん50年分の年月を重ね、かつてのにぎわいなどとっくに失われてしまっているのだが。