昭和四十年七月

 百合子たちが別荘で日記を書き始めたのが、前年の7月。ちょうどこの月で一年が経過。
 暮らしはじめた当初は、あちらこちら修繕や改修が必要だった別荘も、ようやく不具合が少なくなり、生活にも落ち着きが出てきたように見える。
 
 花が夏休みになったこともあり、かなり長く別荘に滞在しているが、そのあいだ頻繁に東京と往復しなければいけない事情もあった。

・7月6日(火)〜8日(木)/3日間
・7月13日(火)〜15日(木)/3日間
・7月17日(土)〜20日(火)/4日間 *花、この日から合流。
・7月23日(金)〜26日(月)/4日間
・7月27日(金)〜7月31日(土)/5日間 *実際には8月3日まで滞在。

 以上、のべ19日間の滞在、4回の帰京。
 この頃から泰淳は、代表作のひとつ『十三妹(しいさんめい)』を朝日新聞で連載開始している。現在のように、どこにいてもメールなどで入稿できるわけではないから、手書きした原稿を百合子が最寄りの駅まで運び、そこから〈列車便〉というサーヴィスを使って新聞社に送った。

 田舎の駅では〈列車便〉の利用者が少なかったのか、百合子とのあいだでこんなトラブルも起きている。

河口湖駅で、言葉のゆきちがいからか、私鉄には列車便がないといって強硬に受付けてくれない。間に合わないといけないので、大月まで車をとばして六時半の列車便に、やっとのせる。大月駅では、私鉄でも列車便はきくから、何もここまで車をつかってこなくてもいい、というので、腹が立ったまま、また車をとばして戻る。河口の駅にねじこんでやるぞ。ギュウギュウの目にあわせてやろう、と思い乍ら走らせていたが、今日は交通取締りの日らしく、白バイや交通巡査が多く、こんなときに怒り狂って車を走らせていると取締りにひっかかって大損害だと気をとり直して、ゆったりと女神様のようになる。(七月二十五日)

 いったんは女神様になっていた百合子が、ふたたび阿修羅と化して河口湖駅に怒鳴りこむと、駅長はあっさり不手際を認めた。今後、確実に受け付けることを約束させる。

 さて、百合子や泰淳たちが頻繁に東京と往復することになったのは、身近な人の訃報が19日、23日と立て続けに飛び込んできたからである。
 先に亡くなったのは長年の盟友、梅崎春生。次に河出書房社長の河出孝雄だった。

 梅崎とは前月に座談会で会ったばかり。この夏には武田家の別荘へ来る約束をしていた。そのため百合子は別荘の勝手口の脇に、梅崎夫妻への歓迎の印として、月見草とノハナショウブを6月25日に植えていた。
 朝日新聞の森田正治から電話を受けた百合子は、彼が電話で「梅崎さんが〜」と切り出したのを聞いて、てっきり別荘に遊びに来る件かと思ったが、そのあと「〜亡くなった」と言われて驚くことになる。
 死因は肝硬変。享年は50歳。葬儀委員長は椎名麟三が、戒名は泰淳がつけた。

今朝がた、湖の裏岸をまわって鳴沢へ戻るとき、河口湖にしては、大へん水が澄んでいて、釣をする人も絵のようにしずかに動かない、うっとりするような真夏の快晴だった。〈こんな日に病気の人は死ぬなあ〉と思いながら車を走らせていたら、梅崎さんが死んだ。涙が出て仕方がない。(七月十九日)

 このあと百合子は梅崎の妻宛に弔電を打つため、鳴沢村の郵便局へ行くが、涙を垂れ流しながら現れた彼女を見て、局員はおおいにうろたえる。

帰ってきてずっと、ごはんのときも、誰も口をきかない。主人も私も花子も、別々のところで泣く。主人は自分の部屋で。私は台所で。花子は庭で。(同日)

 一家は葬儀に出席するために山を下りる。疲労のため、泰淳は通夜には行かず、代理で百合子ひとりが出席した。
 そして23日の朝5時半に赤坂を出発し、9時に別荘へ到着。朝ごはんを食べて眠っていると、昼過ぎにふたたび朝日新聞の森田から電話があり、河出の訃報を知らされる。
 こんなバタバタのなかで泰淳は『十三妹』の執筆に取り組んでいたので、さっきの列車便の騒ぎに繋がるのだ。

 河出孝雄は河出書房の二代目経営者。日本を代表する文芸誌『文藝』の発行を改造社から引き継いだり、泰淳、埴谷雄高、三島由紀夫、島尾敏雄、梅崎春生ら錚々たる面々が同人として名を連ねた機関誌『近代文学』を赤字覚悟で発行元になるなど、戦後の文学者たちにとって多大なる貢献をした人物だった。また、坂本龍一の父、坂本一亀を編集者として見出したのも、この河出だ。
 葬儀は26日に執り行われ、翌日に一家はまた別荘へと戻ってくる。

 たとえ近しい人が亡くなっても、生活は続く。日記のなかの彼らも決して沈んでいるばかりではない。
 山中湖で水泳を楽しんだり、勝手口のドアにニスをかけたり、 新しいカーテンをとりつけたり、と充実した夏の日々を送っている。
 また7月18日には深沢七郎がひょっこり別荘を訪ねてきたり、外川さんや関井さんといった近所の友だちもしょっちゅう遊びに来ている。

 外川さんは泰淳に『十三妹』の意味や、あらすじを質問したり、都議会の状況について教えてもらったり(”黒い霧”と呼ばれる議員の汚職事件が発覚し、議会は解散。7月23日に投票が行われ、与党だった自民党が大敗して、社会党が第一党に躍進した)と、すっかり武田家の生活に溶け込んでいる。

 そんななか、外川さんの口から飛び出したこんな名言も百合子は書き取っている。

一昨日ごろ、作家のGさんが交通事故で二人、人をひき殺したという話をした。そのあと、そういうときは、どのくらい、ちょうえきに行くことになるか、ということを外川さんは思慮深げに想像して言ってから「小説家っちゅうもんは、そういう場合、いいだなあ。牢屋に入って(へえって)も、坐って何か書けるっちゅう。(中略)俺ら(うら)や百姓は具合わりいだ。牢屋に入っていれば、それだけ体がなまって、出てから使いもんにならねえだ。石の仕事はとくにあんべえわりいだなあ。それが罰っちゃあ罰だけんど」と言った。主人は黙って笑っていた。わたしは本当のことのような気がした。(七月二十七日)

 29日には東京で起きたある大きな事件に百合子が触れている。
 それは〈少年ライフル魔事件〉と呼ばれ、まず神奈川県の座間で起こった。18歳の無職の少年が、父親から買ってもらったライフル銃で職務質問した警官を射殺。警官が持っていたピストルや制服を奪い、人質をとって車で逃走。渋谷の銃砲店に人質ともども立てこもり、銃撃戦になった。その日のうちに事件は解決したが、裁判では犯人の少年を更生の余地なしと判断され、未成年ながら死刑が言い渡される、数年後、実際に執行された。

 ちょうどこの日の午後、朝日新聞の森田が『十三妹』の原稿を取りに、社用車で別荘までやってきていた。

夕飯の支度をしていると、トランジスタラジオのジャズの合間に、大和の警官射殺犯人が車を奪って逃走、東京の渋谷の銃砲店に逃げ込み、店にいた人を楯にして警官と射ち合いの最中で、見物人が四人負傷し、山手線がとまっている、としゃべっている。森田さんの車が、犯人の逃走した道順をたどって渋谷にさしかかる時刻である。
「ラジオで『ビルから見る東京の夕方の空は紫色で美しい』といっているよ」と、夕焼を見乍ら、花子小声で言う。
 東京は、はるかかなたの、ふしぎに美しいもののように、なつかしいもののように、連続射殺事件のニュースを聞きながら思う(七月二十九日)

 親しかった人たちとのお別れを終え、ようやく慌ただしさから解放された別荘暮らしのなかで、百合子がふと感じた東京との心の距離。そして、モノクロの記録映像では絶対にわからない夕焼けの色。ぼくがこの『富士日記』を読みながら感じているのも、ふしぎに美しく、とてもなつかしいものだ。