(小津安二郎『お早よう』(昭和三十四年)より)
 

昭和四十年六月(三)

 毎週月曜日、NHKラジオ第二で放送されている『カルチャーラジオ NHKラジオアーカイヴス』という番組がある。NHKが過去に放送したラジオ音源から、作家、俳優、文化人などの貴重な肉声を選りすぐって放送するプログラムだ。
 その番組に二〇一六年五月二十三日/三十日と二週にわたり、武田百合子が「登場」した。
 ぼくが放送のことを知ったのはちょうど二週目のオンエアが終わった直後。リアルタイムで聞くことはかなわなかったが、友人の協力もあって、無事にすべての放送を補完することができた(二〇一六年四月放送分以降の音源は、番組HPのなかで、のちに期間限定でストリーミング公開された)。

 武田百合子のファンになってから数年経つが、じつは彼女の肉声を聞いたのははじめてだった。
放送されたのは「夫を語る 武田泰淳」という音源。オリジナルは一九八一年四月三日に放送された。百合子は一九二五年九月生まれだから、五十六歳のときの声ということになる。一九八一年といえば、雑誌『草月』において、「ことばの食卓」の連載を隔月でスタートしている。故・武田泰淳夫人という立場から、ひとりの随筆家として、彼女が自立をはじめた頃、といえるだろう。

 はたして彼女の声は想像よりもやや高く、舌足らずで、甘えたような語り口だった。五十六歳の中年女性への評価として妥当かどうかわからないけれど、率直に言って、とてもチャーミングだった。百合子と仲の良かった女優、岸田今日子の声を思い出したりもした。
 岸田今日子も『富士日記』の愛読者だった。百合子の死後、中央公論社から出た『武田百合子全集4 犬が星見た』の巻末に、追悼エッセイも寄せている。
 岸田は、あるパーティーで百合子と知己を得た。それ以降、互いの著作を送り合ったり、花の写真展に招かれたりするようになったが、ゆっくりと食事をするような機会はたった一度きりだったという。岸田は「こんなに早く亡くなるとは思いもせず」「今さらのように消極的な自分が悔しい」と書いている。
 その、たった一度の食事会は、ラジオ番組での対談後のことだった。番組の中で、岸田今日子が『富士日記』の一節を朗読したということだ。百合子の没後に放送されたテレビ番組(山梨放送『一億人の富士山』)のなかでは、百合子と岸田と共通の友だった加藤治子が『富士日記』を朗読していた。それはそれで悪くはなかったが、加藤治子のおっとりとした、いかにも日本のおふくろ然とした雰囲気は、すこし感じが違う気もした。岸田ヴァージョンの朗読『富士日記』を聞く手立ては、おそらくこの先も無いだろう。ただ、彼女の『富士日記』のほうが、実際の百合子の語り口に近かったのではないか、と思う。

 さて、日記に戻ろう。

 昭和四十年六月二十五日分の日記はここまででも一、二を争う、長大なものになっている。
 その理由のひとつは、またも外川さんが武田家にやってきて、酒を飲みながら披露した雑談を、律儀に百合子が書きとめているからだ。
 山荘を六月十日頃に引き上げ、二週間ほど東京で生活したあと、二十五日早朝に夫妻は富士へ戻ってきた。

今日は、東洋文庫、うちにある全冊、井伏鱒二全集、浮世絵集、のせてくる(六月二十五日)

 東洋文庫については第一回のときにも触れた。アジア諸国の古典文学や随想、紀行文などを紹介している平凡社のシリーズだ。一九六三年の創刊以来、二〇一六年現在で八百五十点余りの書籍が、月に二、三冊のペースで刊行されている。
 この日記が書かれた昭和四〇年六月時点だと、既発の作品はまだ全部で四十冊ほどだった。映画『アラビアのロレンス』(ちょうどこの前年、日本でも映画が公開されていた)で有名なトーマス・エドワード・ロレンスの評伝や、ジョン・マンデヴィルの『東方旅行記』などが目を引く。そのうちの何冊を泰淳が所有していたかは記述されていないが、戦前から中国文学を研究し、戦争中は中国の戦線へ従軍し、数年後にはシベリアから旧ソ連、ヨーロッパにかけて、妻や友人とともに縦断旅行した彼だから、手に入れた本は多数あっただろう。

 別荘では、夫妻の不在のあいだに、トイレの浄化槽や勝手口の羽目板張りの工事が進んでいる。しかし、プロパンガスの元栓をひねったとき、どこかでガス漏れしていることに百合子が気づく。工事の際にパイプのつなぎ目を外したまま、ほったらかしになってたのが原因であることがわかる。すぐに人が飛んできて修理を施したが、一歩間違えれば大事件に発展しかねないインシデントである。ただ、このようなトラブルが別荘の建築以来、日常茶飯事だったこともあり、たいして百合子たちが騒ぎ立てる様子もなかった。
 このあと石屋の外川さんがまた仕事の合間にやって来て、話に花を咲かせる。百合子はそれを丹念に書き取り、記録している。
 外川さんは別荘のある鳴沢村とは、河口湖を挟んだ向う側にある黒駒というところに、御影石が採れる山を持っている。そこから石を切り出し、鎌倉や横須賀あたりの別荘地へセールスに通っているのだが、それがなかなかうまくいっていない。また雨で石屋の仕事ができないとき、従業員たちを石和の温泉へかわるがわる連れて行くこと、そしてふたたび「ジョウショウ殿」の秘密なども。都会や文壇の喧騒から離れ、テラスでひなたぼっこしながら酒盛りをし、こうした他愛もない話に耳を傾けている時間は、泰淳や百合子にとってどんな価値があっただろうか。
 外川さんの話と対比させるように、百合子は同じ日の日記にこんなことも記している。

この間、赤坂の家に、座談会の帰りの、埴谷[雄高]さんと野間[宏]さんと梅崎[春生]さんが寄った。みんな酔っていたが、お酒を飲んではいけない梅崎さんまでも「もう全快しました」と言って、酔っていて、また、その上に飲んでしまった。そして、小さな声で「何で、富士山の中なんかに家を建てたんですかねえ。きっとよくないところですよ。ぼくは富士山キライですよ。蓼科に建てればいいのに」とくり返した。「大岡昇平も、そこに建てるそうですねえ。大岡さんは今年は印税が沢山入っているはずだから、彼は本当に建てるかもしれないなあ。どうして大岡さんとばかり仲よくするんですか。ボクも、そこに建てます。タデシナから引越してもいいんだ(中略)」などとおっしゃった。だから、梅崎夫妻歓迎の印として、出入口に月見草とノハナショウブを植えて、見栄えのするようにしたつもり(六月二十五日)

 六月二十六日も羽目板などの細かい工事が続いている。百合子は梅崎さん夫妻を歓迎するために、近所で見つけた名も知らぬ美しい花と共に、月見草を植え付けた。管理所の関井さんがテラスの手すりを一部切断して、庭から直接テラスへ出入りできるようにしてくれる。泰淳と百合子はそこにペンキを塗った。色はピンクと白。泰淳は「自然に対する抵抗」だと書いている。自然という雑多な色の世界において、ペンキという人工のどぎつい単色が、住居の存在を明確にしてくれるからだ。
 翌二十七日、復路では使ったことがなかった新しいルート、すなわち国道二四六号線を使って東京に戻ったと書かれている。陸上自衛隊北富士演習場を右に見ながら、東富士五湖道路を走り、籠坂峠を抜けて、御殿場へと進路を取る。現在なら東名高速道路に乗るところだが、その頃は未開通だった。整備が進んでいた国道二四六号線で都心方面へ走った。

往きの景色や方向のくせがついているので、帰りにこの道を使うと、体がねじくれているみたいで妙な気持。高井戸の公団アパートにいるとき、向いのKさんの室に行くと、間取りはそっくり同じなのに、向い合っているので逆のようで、体がねじれているように感じたのと同じ。

 百合子が感じた「ねじれ」に近い感覚を、小津安二郎が映画『お早よう』のなかで表現している。舞台になっているのは東京郊外の新興住宅街。大きな河川敷に同規格の家が、長屋のようにみっちりと立ち並んでいる。均質な住宅に住んでいるからこそ、住民たちは互いの生活の小さな差異が気になって仕方なく、それが決して小さくない心の亀裂へと広がっていく。上掲したスクリーンショットを見ていただければわかると思うが、小津特有の画角で切り取られた室内のカットは、なんとも奇妙な錯覚を引き起こす。シーンが次々と積み重なっていくと、誰がどの家にいるのか、どの家から出て、どの家に入ったのか……など、空間がねじれるような感覚に襲われてしまう。
 この映画が作られた昭和三十四年は、終戦からすでに十五年近く経過して、皇太子のご成婚……いわゆるミッチー・ブームに沸き、東京でのオリンピック開催が正式決定した年だ。焼け跡からの復興にひと段落をつけつつあった頃といえるだろう。もう一度、自分たちの生活を再構築していくなかで、より豊かで、文化的に暮らしていく最低限の規格として作られたのが、『お早よう』に登場するような住宅だった。
 
さまざまな境遇を抱えた家族がひとまずここで暮らしながら、手に入れたいものは洗濯機やテレビであり、次に夢見るのは一戸建てのマイホームである。世の中は明るくなっていく。自分たちは取り残されたくない。大人はみな焦っている。「おはよう」と笑顔で挨拶しながらも、そんな胸のうちを隠している。実際のところ、裏で言い合っているのは、お互いの陰口だ。奥さんAと奥さんBが、そこにいない奥さんCの悪口を言う。BとCはAのいないところでAの悪口を言う。そんなシーンがこの映画の冒頭にある。日本人が狭い国土の中で、肩寄せ合って暮らしていく以上、かならず引き受けなくてはならない、人間の本質的な厭らしさや怖しさがある。小津は映画のなかで縮図として描こうとしていたのだと思う。その厭らしさや怖ろしさは自分の身近に今もある。
 
かつて小さな高井戸の公団アパートに住んでいた武田家は、夫が作家として成功することで、赤坂の高級マンションに引っ越し、自家用車を持ち、富士山麓に別荘を所有するまでになった。彼らはいち早く脱出できたのである。仲間の文学者たちは酒席で、印税や次に建てる別荘の話題を口にする。『富士日記』とは、いち主婦の素朴な生活の記録ではない。この事実を時折ぼくは思いかえすことにしている。