昭和四十年六月(二)

 六月三日の日記には昨年(昭和三十九年)の十二月三十日以来、半年ぶりに石屋の外川さんが登場。武田夫婦が赤坂の自宅へ戻ろうと準備していたところ、木の生えた石を東京へ持って帰れと言いに山荘へぶらりとやってきた。そして車で彼の家まで三人はいっしょに取りに行った。

 三日後の六日、夫妻は富士へ戻ってくる。翌七日、午前中のうちから外川さんが別荘にやってきて、庭先でウィスキーを飲み、おもしろい話を夫妻に聞かせた。
 六月七日と八日の日記には外川さんからそのとき聞いたエピソードを丁寧に再録してある。

 まず最初のメモは外川さんが所有する田んぼと田植えについての詳細な説明。百合子が要約した彼の話を、さらに抜き書きしてみよう。

○河口湖畔周辺の町では八畝(うね。一畝が約一アール)で田んぼ一枚と換算するが、外川さんは田を三枚持っている。一畝で米一俵が穫れるから、外川さんは八畝かける三枚=二十四俵の米を毎年収穫している。田植えの時には男八人、女七人の人出をつかって丸一日かかる。日当は一人あたり千二〇〇円。親類にはお金ではなく、秋にできあがった米を渡す。お手伝いの人々には昼ごはん、三時のおやつ、夜ごはんをふるまうので、日当以外に一万円はかかる。奥さんは田植えの作業よりもご馳走づくりにかかりきりになる。今は機械が発達したから、刈り取りが大変なだけで野菜をつくるより米のほうがずっとラク。

 百合子も外川さんのこの話を聞いて「田が一枚欲しい」と感想を付け加えている。そして六月八日の日記にも話の続きがメモしてある。

昨夜眠くなって書くのがいやになってやめておいたら、今日になって主人が「外川さんの話は書いておくのだぞ」と言うから、忘れないうちに書いておく。いやだなあ。指はイタくなるし、字を書くのは大へんだ。外川さんがこれからも沢山話をしたら困ることになる。

 と百合子は愚痴りながらも、尋常ではないほど詳しく、外川さんの話を書き留めている。
 
○ジョウショウ殿(注釈:実際は「常唱殿」といい、地元の寺が戦後に作った鉄筋コンクリート製の小さな建造物。富士山の五合目に現存している)の秘密について。船津(河口湖町の集落)に住んでいる外川さんの知り合いが、富士山の頂上で石積みの仕事をしていたところ、朱色の箱に入った経巻を見つけた。調べてもらうと、日蓮上人の真筆ということだった。日蓮を富士山に案内したと言われている塩谷平内の子孫にそれを見せると、上手いこと言って返してくれない。そのうえ塩谷は勝手にサンロク会社(注釈:おそらく富士山麓電鉄のこと)へ売ってしまった。サンロク会社はその経巻をジョウショウ殿におさめ、経巻もそこで見つかったものだとウソの宣伝している。ほんとうのことを知っている外川さんと知り合いは会社に抗議したが、一銭ももらえなかった。そのうち知り合いの家は不幸続きとなり、知り合いも塩谷も死んでしまった。そして真相を知っているのは外川さんだけになってしまった。
○外川さんの一族にはいろんな迷信がある。家の守り神ごとに異なっていて、外川さんのところではキビを蒔いてはいけない、ということになっている。また二十九日に餅をついてはいけない、ということにもなっている。
○昭和二十四年ごろ、外川さんは村の開拓組合長と勤労組合長をやっていた。大豆の品評会に村で収穫した大豆を出したら三等になったので、天皇に拝謁できた。じつは外川さん、神田の役所に行って、当時の一万円という大金で役人を接待した。つまりは買収で三等にしてもらったのだ。三等まで天皇陛下に会うことができる。
○ある宗教団体は人の弱みにつけこんで攻めてくる。しかし、そこの親方は金がたくさんあるから偉い。別の宗教団体も攻めてきたが、外川さんはハネつけた。

 とまあこんな感じだ。
 前回分に書いたが、泰淳はこの家族の日記帳をもとに随筆や小説など、さまざまな作品を書いている。作家である泰淳にとって、都会ではけっして聞くことのできない素朴でユーモラスなエピソードもまた、新たな作品を生み出すためのインスピレーションと見なしていたはずだ。泰淳はこの数年後に雑誌『海』(中央公論社)で長編小説「富士」を連載するが、『海』の編集長だった近藤信行が『武田泰淳全集 第十六巻』月報に寄稿した「富士桜高原」という回想録のなかでこんなことを書いている。

富士山麓に山小屋を建てたと武田さんからうかがったのは、昭和三十九年の終りごろだったろうか。そのころ私は『日本の文学』の編集に従事していたが、赤坂のお宅へ上るたびに、山荘生活のたのしさを武田夫妻からきかされるのであった。太陽の光のありがたさがよくわかったといわれ、雑木林の枝を切って薪をつくったり、必要な道具を選びいれたりする話が、新鮮な感動をともなって武田さんの口をついて出てきた。(中略)陽やけした武田さんは、まことに健康そのものであった。

 泰淳は近藤が山荘へ訪ねたおり、日記を見せてもいた。

それは武田夫妻の山荘滞在記録であった。都会の喧騒からのがれ、大きな愛着をもって自然のなかの生活をたのしみ、作品の制作にとりくんでいる武田さんの精神生活をのぞくような気がした。またあるとき、富士を書いてみたいと、こころのうちをあかされたことがあった。どんな構想ですかときくと、なにもまださっぱりわからないが、なにか書けるかもしれない、と言われる。堀辰雄が軽井沢を書いたような意味で、自分にもなにかができるかもしれない、とのことであった。(中略)この<<なにかが>>という地点で、大作『富士』は出発したのである。

 その後、近藤が編集長となって雑誌『海』が創刊されることになり、担当編集者の任を引き継いだのが村松友視だった。一九六九年六月に創刊号の発売が決まっていて、泰淳の「富士」もそこからスタートする約束だった。しかしそれは果たされず、紆余曲折を経て、十月号から掲載された。太平洋戦争中の富士山麓の精神病院を舞台にした重厚な小説で、泰淳の代表作のひとつとなった。
 泰淳は小説「富士」に関するあるインタビューでこんなふうに答えている。

富士山は、崇高なもの優雅なものの象徴として、また美的鑑賞の対象として讃仰されてきたわけだけれど、山梨側の人はちっともありがたがってないんですよ。最近の観光ブームで、山梨側も大きな収入を得るようになったけれど、これまでは富士のために農耕に不利な条件もあって、富士は恵みの山、慈悲深い山ではなくて、むしろ忌みきらわれていた山なんです。このことは山麓に住んではじめてわかったことで、ほんとうにおどろいたことなんだ。(中略)それぞれの土地、それぞれの人に「自分の富士」があるのと同じように、個人個人のうちに、なにかしら富士についての理解しがたい秘密がこもっているのではないかと考えられるんです。(武田泰淳全集第十六巻「富士と日本人 ─長編『富士』をめぐる感想─」より)

 外川さんの他愛のない話を百合子に命じて記録させていた頃、泰淳の中でいつか富士についてなにかが書けるかも、という構想があったかどうかはわからない。ただ、富士とともに生きてきた外川さんのような人々との交流が、泰淳の中にあった「自分の富士」の発酵をうながし、やがて長大なスケールの小説へ発展したことはまちがいないだろう。

 なお、近藤信行は一九七八年に中央公論社を辞め、評論家へと転身。日本の有名登山家、小島烏水の評伝など山岳関係の本を主に上梓している。小説『富士』の執筆準備のおり、山岳の知識に造詣が深い近藤がさまざまな資料を集め、武田に届けた。そこには富士山だけでなく、甲州地方の風習や郷土史に関する資料も含まれていたようだ。
 近藤はその後、二〇〇五年から二〇一三年までの八年間、山梨県立文学館の館長を務めた。文学館は武田山荘のあった富士河口湖町とは車で約一時間ほどの距離だ。これもまた不思議な縁である。