文藝別冊『武田百合子 天衣無縫の文章家』より。
文藝別冊『武田百合子 天衣無縫の文章家』より引用。

昭和四十年六月(一)

 日記とは目にうつった光景、それに呼応する心の声などを、誰憚ることなく、ありのままに記録した私観───究極の”セルフィー”のようなものだ。しかし写真や動画と違って、カメラをどこまで遠くに引いても、自分自身の姿がそのままうつり込むことはない。百合子がいくら正直に日記と向き合っても、彼女自身のカメラにうつる自分の姿は、客観的な彼女とは違う。いっぽうで泰淳あるいは娘の花のカメラは、百合子自身がけっして撮ることのできない彼女の姿を切り取る。歴史上の大事件を描くならまだしも、この日記のなかでは大した事件も起こらない、どこにでもある日常を淡々と記録したドキュメントだ。しかし、この家族はいずれも非凡な書き手である。彼や彼女らが自分たちの生活を複眼的に眺め、おのおのの視点でそれを書いたことで、『富士日記』は特別な光を放つようになった。

夕食後、あたりが暗くなってから、屋外にいた百合子が「大きな鳥が、私の方へ向って飛んできた。とても大きくて。怖くて怖くて」と、両手をひろげて大きさを示した。「ムササビかな。コウモリかな」と私は言ったが、そんなに大きな鳥がはたしてこのへんにいるかどうか、あやしいと思った。大きく見えたのかもしれないのだ。
「羊なんか、さらって行く鳥もいるんでしょう。ポコなんか、こうやってさらわれるわ」と百合子は、両掌をそろえてつかみかかるかっこうをした。「もし、わたしをさらっていったら、鳥は巣に戻ってから、びっくりするね」とも言った。(中略)
 百合子は夕方、大きな鳥をみてから、一種放心状態とも興ふん状態ともつかない具合となり、眠るまで、ひとりごとのように大きな鳥について、ああでもない、こうでもないと言いつづける -泰淳記す-(六月二日)

 夕暮れどき、薄闇の中からふいに現れた大きな鳥は、時を追うごとに百合子のイマジネーションのなかで、より巨大で、凶暴な姿へ変貌していった。もしも百合子自身が書きとめていれば、ぼくたちはもっと違ったかたちで、この鳥の姿を眺めたはずだが、彼女が日記のなかで触れることはなかった。一方でこの出来事を泰淳が書いていなければ、ぼくたちは知る由もなかっただろう。

 泰淳の日記はまるでプラモデルのランナーのようなものだ。ランナーとは、組み立て前のプラモデルのパーツをひとつひとつ繋いでいる枠のこと。もちろん製造工程上、不可欠なものなのだが、パーツを切り離してしまえば、すぐに無用の長物となる。しかし、熟練のモデラーたちはその無用の長物を素材として再利用し、オリジナルの部品を創り出したりもする。
 泰淳はこの日記を素材に、さまざまな随筆や小説を書いている。もっとも知られている作品は、彼が亡くなる直前に出版したエッセイ集『目まいのする散歩』(一九七六)だろう。
 収録された八篇のエッセイは昭和四十九年九月から雑誌『海』で連作として発表された。エッセイには共通するタイトル(「〜〜散歩」)が付けられている。糖尿病、脳血栓症などの病が悪化しており、自分で筆を取れなくなっていた泰淳にかわって、百合子がすべて口述筆記した。
 なかでも「船の散歩」「安全な散歩」という二篇は、泰淳の死後、百合子によって『犬が星見た』として世に出された、旧ソヴィエト旅行の日記を元にしている。泰淳の幼年期の回想なども書き加えられているが、旅行記の部分はほぼ百合子がつけた日記からの引用である。
 『武田泰淳全集16』にも「山麓のお正月」という短いエッセイが収録されている。「うちの家族三人が書いている、山小屋の日記には、富士山がとりわけいいという記事があまりない」という書き出しで、原稿全体の三分の二が、妻と娘が書いた日記(泰淳いわく「共同日記」)からの引用でできている。相当な省エネ仕事である。
 原稿の中に引用されたのは、百合子の昭和三十九年十二月三〇日と昭和四十年元日、そして花の昭和三十九年大晦日と翌年一月二日の日記だ。『富士日記』とこの原稿を照らし合わせると、泰淳が修正したり、省略したりしている箇所がよくわかる。花の日記はほとんど全文引き写している。子どもらしい言葉づかいや文章のリズムを損なわないようにするためだろう。それに引き換え、百合子の文章に対しては、修正にためらいや遠慮を感じられない。
 また、このエッセイで興味深いことをひとつ知った。

子供の日記は絵入りなので、女の子のような可愛い顔をした富士山が、両手を前に出して笑っている絵がかきこんである。

 『富士日記』のもとになった日記帳には、百合子の描いたスケッチが挿絵のようにたくさん添えられていたらしい。だが、書籍としてまとめられた日記に収められた絵はわずか二点だけ。泰淳のこの記述によって、百合子だけでなく、花も日記帳に絵を描いていたことがわかった。
 百合子は入院前夜の一九九三年五月六日、「あの箱の中身は全部燃すんだよ、もし私になにかあったら」と花へ伝えた。まさに遺言だった。”あの箱”とは百合子の部屋に置いてあった茶箱のこと。「この中のものは私が死んだら燃やすこと」というメッセージが貼り付けられ、亡くなる何年も前から箱の存在を花も認識していた。入院してからわずか二十日後の五月二十七日、百合子が肝硬変で亡くなったあと、茶箱の中身───日記帳、未発表の原稿なども入っていたそうだが、花はそれらをほとんど読み返すこともなく、家族の思い出の詰まった河口湖へ持っていき、百合子の言いつけどおりすべて焼いた。その中には幼き日の自分が書いた日記が載ったノートも含まれていただろう。しかしそれもすべて灰になってしまった。
 貴重な資料が永遠に失われてしまったことは、われわれ愛読者にとってはあまりにも不幸だが、母から託された遺言とはいえ、迷わず行動に移した娘もまた立派の一言である。