昭和四十年五月(三)

 泰淳が五月某日に記したとされる日付不明の日記というか、ちょっとしたエッセイが百合子の書いた五月九日の日記のあとに挿入されている。

この二日の雨風で、サクラはかなり散ってしまった。夜半に嵐の吹かぬものかは、のコトバ通りである。(五月某日〔日付不明〕)

 富士山麓の別荘周辺は、桜の見ごろが四月の下旬から五月の上旬ということで、この時期のいずれに書かれたということなのだろう。
 「夜半に嵐の吹かぬものかは」は、親鸞の詠んだ有名な和歌からの引用。全文は「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」である。
 貴族だった両親と死に別れた親鸞。戦乱や飢餓で荒廃した俗世を捨てて、出家の決心をした幼い彼ははるばる徒歩で寺に向かったけれど、到着したのは深夜。これから準備するのも手間だし、お前も疲れただろうから、と得度は明日の朝にしようと住職に提案された。にもかかわらず「今、咲いてる桜だって、夜に嵐が来たら散っちゃうかもしれない。人の命なんて桜の花以上に儚いというし、今すぐやってほしい」と、親鸞はこの和歌を詠んで頼み込んだ。住職は感動。すぐさま得度の儀式を執り行ったと言われている。そのとき親鸞は九才。に”和歌”には信じられない話である。
 泰淳の生家は東京都文京区にある寺で、三島由紀夫の葬儀に僧衣をまとって参列したというエピソードがあるほど、仏教に強いバックボーンを持つ作家だ。ただ彼が信仰したのは浄土宗である。
 また、泰淳は親鸞本人になりきって、世相を語るという趣旨で『親鸞聖人架空会見』(産経新聞・昭和三十八年一月一日掲載/のちに評論集『冒険と計算』に収録)というエッセイを書いたこともある。


 つづく五月十七日の百合子の日記は熱がこもっている。
 夫婦とは昵懇の中国文学研究家/評論家の竹内好が初めて山荘へ遊びに来ることになり、泰淳ははりきっている。いや、来ることになった、というのは語弊がある。なにせ泰淳が無理やり彼を山荘に誘ったからだ。

竹内さんは<あまり行きたくもないが、仕方がない。行ってやるか>というような顔をしてズボンなどはきかえている。照子さん、玄関の外まで出て見送る。「武田さんときたら、まったく。急に連れていきたいなんていうんだから。いつも急なんだから。百合さん、気をつけていってね」と、呆れたように笑っている。(五月十七日)

 竹内好の妻照子と百合子もかつて同じ職場の同僚だった過去がある。百合子が泰淳と知り合ったのは、神田の喫茶店兼酒場ランボオだったが、その店は昭森社という出版社が経営していて、照子はそこで勤務していた。竹内とのユーモラスな馴れ初めのエピソードが、『朝日ジャーナル』で泰淳が書いていた「日本の夫婦」という連載(昭和三十八年一月六日号〜同年六月三十日号)のなかにも登場する。


 本栖湖、樹海、西湖、河口湖……と、おなじみの名所を案内する夫妻だが、竹内はさほど楽しんでいる様子はない。おまけに泰淳はひとつの場所に五分もおらず、追い立てるように次の場所へ行こうとするものだから、ますます竹内はつまらない。

有料道路より富士五合目へ上る。下は晴れていても、五合目にくると、雲が下になったのか、下の景色は見えない。(中略)主人はここでも、先に立って、すたすたと歩き「はい、ここが五合目。竹内、見たか? 見たか? はい、じゃ、次のところへ行こう」。はしゃいでいるのかしら、この人。(同日)

 肝心の富士山観光でさえこのとおり。言っておくが、竹内好は泰淳より二歳年長である。
 しかし、竹内のほうも負けてはいない。観光地巡りを切り上げ、山荘に戻ってきた彼は、敷地のあちこち眺めまわした挙句にこんな言葉を吐く。

「おい、武田。来い来いというから、どんなところかと思って来たが、なんだ、普通のところじゃないか。ここは普通のところだぞ。普通だぞ」と主人に言った。(同日)


 夜ごはんはすき焼き。竹内が鍋奉行ならぬすき焼き番長と化し、あれこれ味付けの指図をしながら、三人仲良く食べる。ただ、百合子の記述によると───。

牛肉は少し紫色がかかっていて、泡など出て煮えていたので、食べると誰か死ぬかな、と思いながら食べたが、味は変わらなかった。(同日)

 百合子も百合子でやはりひどいのだった。しかし、この日の日記は最後の最後で、大人同士の友情というか、しみじみとあたたかな心のつながりを感じさせる記述で締めくくられている。

主人がコタツ部屋に眠ったあと、竹内さんは食堂で私とウィスキーを飲んでから、二階の主人の寝室へ入る。水を持ってゆくと「百合さん、疲れたでしょう。早くおやすみ。武田はお殿様だねえ」と、ふとんの中から竹内さんは言った。「はしゃいだのね。竹内さんが来たから」。私は小声で笑った。(同日)

 もちろん百合子と泰淳が出会う前から、竹内と泰淳は友だち同士である。そこへ彼女が妻としてあいだに入り、竹内と百合子もまた篤い友情で結ばれたのだ。この数年後、彼ら三人は最初で最後の海外旅行へと出かけ、その旅の記録が『犬が星見た』という素晴らしい紀行文として結実する。
 そして、一九七六年十月に泰淳が天国へ旅立った五ヶ月後、竹内好もこの世を去った。百合子は星空を見上げる犬のごとく、ただ呆然と二人を見送った。そんなことをぼくたちはもう知ってしまっているから、このなんてことのない一日の記録が楽しくもたまらなく切ない。


 翌五月十八日、百合子は前日に酒を飲み過ぎたせいで、彼女が起き出してきた時には、山荘のテラスですでに泰淳と竹内は迎い酒をしていた。別荘からの眺めも日が改まったことで印象が変わったのか、昨日は感心しないと言っていた竹内も、風景に見慣れてくるとだんだんよくなってきたようで、「今朝はなかなかいい」と一転して褒め言葉を述べる。しかし、泰淳は急に家中の雨戸を閉めはじめ、午前中のうちに東京へ帰ると言い出す。呆気にとられる竹内と百合子。「もう少しいたっていいじゃないか。俺は帰りたくないよ」と竹内は抗議するも、泰淳は聞き入れない。

「いつだって、こんな風よ」「昔からだな、そういうところはちっとも変わらんね。彼は『非常識』って呼ばれたんだから」

 非常識───じつにイヤなあだ名である。