yoshitora

(歌川芳虎「金川ヨリ横浜遠見の図」 奥は富士山、その右横の緑青色の山が大山)

 
昭和四十年五月(二)

 一九六五年のゴールデン・ウイーク。花をともなって、家族は山にやってきた。
 寒いあいだ閑散としていた富士の別荘地に、ようやく都会から多くの人たちが戻ってきて、賑わっている雰囲気が漂っていることが、五月二日(日)に泰淳のつけた日記からよくわかる。
 この日は。泰淳、花、百合子の親子三人がそれぞれ日記を書き記しているが、百合子のお株を奪うような花の記述が目を引く。

苦労して植えた梅の木はだいたいが芽を出していた。また、私が植えた玉ねぎも育っていた。この辺は桜が咲くのがおそいらしくて、河口湖では桜が咲いていたが、うちの庭の桜はまだ少ししか咲いていない。(中略)父と私は昼寝をした。母は本を読んでいた。起きてから母とトランプ「ちっちのぱ!」をした。母はすごく手を出すのが速いので、一緒にトランプをめくっても、いつも母の方が一秒くらい速い。母はだんだん、きげんがよくなり「もっとやろう。もっとやろう」といいだした。「花ちゃん、お金いくら持ってる? お金かけてやろう」というと、母は父に叱られた。すると母は「それじゃあ、宿題でやろう。花ちゃんが負けたら自分でやる。あたしが負けたら宿題やってあげる。それならタメになることだからいいんだ」と言った。-花記す-(五月二日)

 言うまでもないが、宿題をかけたって娘のタメにはならない。しかし、娘相手のトランプゲームで「お金かけてやろう」などと本気で言い出す百合子はすごい。さすがは戦後の混乱期に闇屋となり、禁制品のチョコレートやアイスクリームを売り捌いて、糊口をしのいだこともあるバイタリティの人だ。この子どもよりも子どもらしい無邪気さこそ、彼女を直接知る人たちだけでなく、ぼくたち読者を魅了する最大の理由だ。

 この滞在は非常に短く、翌五月三日(月)には帰京。花はふたたび立教の寄宿舎へ送り届けられた。
 しかし、間髪入れず、五月八日(土)には夫婦二人で山に帰ってくる。

前五時四十分赤坂を出る。花子は寮にいる。(中略)今日は溝の口から出ている御殿場までの河野道路(河野一郎さんが急かせて作ったから、そういうのだそうだ)を通ってみる。大橋から三軒茶屋まで、みちがえるほど、幅の広い道になった。(中略)溝の口を過ぎて松田まで、有料道路のようなすばらしい道。(中略)この道は国道二四六号線というのだそうだ。(五月八日)

 河野一郎は自民党の領袖として、戦後の日本政治を動かしたキーパーソンのひとり。この日記からきっかり二ヶ月後の一九六五年七月八日に河野は大動脈瘤破裂で急死している。
 そんなこともあって、ぼくたち世代の人間にとってあまりピンとくる人物ではないけれど、山崎豊子の小説「華麗なる一族」「不毛地帯」「金環食」には彼をモデルにした人物が登場する(たとえば木村拓哉が主演した二〇〇七年版のドラマ版「華麗なる〜」では西田敏行が演じた”大川一郎”がそうだ)。
 また彼の息子である洋平は父のあとを継いで議員となり、長く衆議院議長を務めた。また孫の太郎も先ごろ初入閣して話題になった。

 彼の業績として挙げられるのは東京オリンピックである。
 河野一郎は一九六二年、建設大臣およびオリンピック担当国務大臣に就任すると、関連施設や道路整備で辣腕を振るった。
 国道二四六号線───いわゆるニーヨンロク。さまざまな歌や映画、ドラマなどでも取り上げられ、その名を聞いたことのない人はいないと思う。
 皇居の外堀に隣接した三宅坂交差点を起点に、国会議事堂や最高裁判所などの日本の中枢に端を発し、青山、池尻、三軒茶屋あたりを抜け、西は静岡県沼津市まで伸びる、全長約125kmの日本を代表する幹線道路だ。
 江戸時代、大山に向かう参詣者が利用する街道として利用された「矢倉沢往還」に沿って、作られた。

 古来より山岳信仰の拠点だった大山(おおやま)は、特に江戸の庶民にとって、近場にある巡礼スポットとして、江ノ島と並んで人気があった。講(こう)と呼ばれるグループを数人で組み、江戸から二泊三日ほどのスケジュールで登頂した。
 文化人類学者の中沢新一と細野晴臣も共著「観光」の取材で大山に講を組んで出かけ、こんなふうに大山を紹介している。

中沢「大山というのは土地柄もあるんだろうけど、江戸の人がわりと気軽に半分レジャーで半分宗教という気持ちで来て、山にとっかかって山に入っちゃった。それを支えてたのが講だったのね」(文庫版P164)

中沢「いろんな意味で、山のバリエーションを知る上では、今回はとてもおもしろかったね。それでやっぱり、山から海が、平地と海が見おろせた。」
細野「両方見えちゃう。」
中沢「里がすぐ手に届くとこにあった。」
細野「江の島が見えたり。」
細野・中沢「サーファー・ネイチャー、湘南。」
中沢「それがやっぱり江戸の人にも、同じ感覚だったと思うんですけどね。ポップな宗教感覚。」(文庫版P166)

 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重『東海道五十三次』によって西国への旅がブームとなり、人々の関心は気軽な大山から、富士山、さらに西のお伊勢さんへと移っていった。こうした変遷もまた、東海道をベースにした国道一号線の発達や、矢倉沢往還をベースにした国道二四六線の発達とも共鳴している。

 ちょうどこの一九六五年に二級国道(維持や修繕を都道府県が担当する)から国が管理する直轄国道に格上げされ、集中的に整備された。
 最大の理由は、日本の経済成長に伴って、大動脈である国道一号線(旧東海道)の慢性的な渋滞が問題となり、混雑緩和のために副道である国道二四六号線の整備は急務だった。
 河野家の地盤は旧東海道からの恩恵も大きい神奈川県西部であり、こうした道路の整備は地元への我田引水でもあった。

川には水が流れていて、大きな樹が多く、いまは若葉の丁度いいときだ。籠坂峠で車をとめて、広々とした見晴らしの中で主人はおしっこをする。(私はしない。)(同上)

 新緑の季節、完成したばかりの新しい道路を走るのは、さぞかし気持ちよかっただろう。その開放感に身を任せるふたりである。