昭和四十年三月&四月(一)

月刊『海』1976年12月号
月刊『海』1976年12月号
正月明けから三月末までのまるまる三ヶ月間、武田家は富士山荘を訪れなかった。
 三月三十一日に書かれた花の日記によると、その理由は「父の仕事の都合」。
 以前にも資料として引いた『海 武田泰淳追悼号(1976年12月号)』に掲載されている略年譜によれば、一月、雑誌『文学界』に「文章のくさみ」、二月『エコノミスト』に「冒険と計算」、三月に「『ジャピンド』について」を『世界』に発表し、前年に打ち合わせをしていた竹内実との共著『毛沢東 その詩と人生』も四月に出版されている。

 ジャピンド───また聞きなれない言葉が出てきた。気になって調べてみると、こんなことがわかった。ジャワ駐留軍として終戦を迎えた日本兵たちの中に、そのままインドネシアへ残り、独立戦争を戦った人たちがいた。その数はなんと一千人。半数が闘いの中で亡くなったという。生き残った人たちは名誉国民として、その後もインドネシアで暮らした。そんな彼らのことをジャパン+インドネシアでジャピンド、インドネシアの人たちはそう呼んだのだった。

 ……と、泰淳は以上のようなこまかい執筆仕事を、花の冬休みが終わって以降、富士の別荘ではなく、赤坂の自宅でこなした。
 そして新学期を直前に控え、最後のチャンスとばかりに親子三人は二、三日、山梨で過ごすことにしたのだ。

あしたの朝、また東京に帰るはずだったが、あしたの午後か、あさっての朝に帰ることにした。そういうことは、いつも父がきめる。父は車の中でかんビールをのみながら急にいいだしてきまったり、空や風の具合をみていて急にいいだしてきまる。(三月三十一日)

 この花の文章で、とにかくいつ出かけて、いつ帰るというスケジュールが泰淳の気まぐれで”急に”決まることがよくわかる。
 百合子は深沢七郎からもらった梅の苗木を車に積んできて、山荘の庭にそれを植えた。

陽のあるうちに梅の植えつけを終えるつもりで、庭のあちこちに穴を掘る。一見柔らかそうな土のところでも、十糎位掘ると凍っていて、そこから下はコンクリートのようなかたさで、シャベルでは歯がたたない。ナタをふり上げたり、ねじまわしの頭を金槌で叩いて、一センチほどずつ、五ミリほどずつ齧って、コンクリートをこわす要領で穴を掘る。<中略>梅の苗木は、主人の仕事が終るのを待っている間に、赤坂の家の風呂場で少し芽が出てきてしまっている。陽が沈むころ、十七カ所の穴をやっと掘り終って、それからいそいで植える。(同日)

 百合子はまったく触れていないが、梅の苗木のための穴掘りは花も手伝っている。もらった苗木が十七本あったので、その数だけ穴を掘ったのだ。花もその作業を補足するように説明している。

昼食までに六つぐらいの穴を掘り、食後に残りの穴を掘り、植えた。そして水をやり、めじるしの赤い布を、それぞれの梅の木にしばりつけた。<中略>
 母が(いつものことだが)一番よく働いて楽しんでつかれたようだ。母は穴ほりとか、ギターをひきはじめると、一日中でもやっていて根気強い。御はんなどつくらなくなる。父は小説を書くのを一日中やっていて根気強い。私はどっちも根気がなく、人に言われるとやるというタイプ。(同日)

 それは根気のあるなしではなくて、子どもだからしかたがないんだよ、と花を励ましたくなる。大人と子どもでは夢中になれるものが違うんだよ、と。
 結局、翌四月一日に天気がおもわしくなくて、夕方から一家は帰京した。

 この日の日記には、思い出したようにゴルフ会員権について記載されている。

ここに家を建てると自然についてくる平日会員権は、うちではゴルフをしないからいらないし、年会費もしたがって払いたくない、と私言う。関井氏「東京の人は皆さんゴルフなさるんでしょう。いらないなんぞという方はいないと思っていましたが。ここのゴルフ場はいいで評判なのになあ。山本富士子さんも会員で、ときどきみえます。先生がなさらないなら、奥様でも」などという。日当もらってキャディならやってもいいんだ、私は。(四月一日)

 相変わらず捨て台詞に気が利いている。

 このゴルフ場というのは現在も続いている富士レイクサイドカントリー倶楽部のことである。
 富士観光開発によるディベロップメントの重要な柱がゴルフ場の開発だった。明治時代から日本にもゴルフは根付いていたが、ゴルフ場のような広大な土地は戦時中、軍事関連の用地としてことごとく接収されていた。しかし、この富士山麓は戦火の影響が少なかったことから、ゴルフ場を含む、リゾート地としての開発にはうってつけの場所だった。
 このゴルフクラブのホームページによると、昭和三十三年から富士山麓で『「ゴルフ場・別荘地・遊覧施設・飛行場」を創るという壮大かつ夢のような計画が持ち上がった』のだという。水源の確保など問題はあったが、無事にそれもクリアし、ゴルフ場も別荘地も作ることができた。また遊覧施設としてスケート場(現在の富士急ハイランド)、そして飛行場も昭和四十年に完成する。富士観光飛行場、通称・鳴沢飛行場である。調布の飛行場と空路で結ぶことも計画されたが、中央高速が開通するなどしたため、正式に開港はしなかったという。

 特記:これを書いているとき、なんの因果か、調布飛行場で小型飛行機の墜落事故が起きた。乗員乗客だけでなく近隣の住人も巻き込んだ痛ましい大事故となった。ちょうどこの日記の時期にも大きな航空機事故が富士山で起きている。昭和四十一年に発生した「英国海外航空機空中分解事故」だ。富士山を遊覧しようと、イレギュラーなコースを飛行した結果、富士山のような独立峰の近辺で発生する特殊な乱気流によって、124人を乗せた旅客機が飛行中に分解。機体は一瞬でバラバラになり、御殿場一帯に落下した。富士観光飛行場が使われなかった理由のひとつには、この事故の影響があったかもしれない。