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昭和四十年一月(二)

 一冊の日記帳を共有しているから、娘が日記へ熱心に向き合っているあいだは、当然のことながら母は日記を書くことができない。したがって彼女は家事をしたり、ガットギターを爪弾いてみたり、外の風景を眺めたり、本を読んだりすることになる。
 特に元旦と一月二日分はその傾向が強くて、花がしっかり書いている分、百合子は必要最小限度の記録にとどめた印象だ。翌三日は、花が冬休みの宿題に追われていたため、日記の所有権はふたたび百合子のもとにかえってきた。
 しかし長々と書いているわけではないけれど、ついついニンマリしてしまうような記述はそこかしこにある。例えばこんな感じだ。

一月三日(日)晴
三時、二またコンセントを買いに山を下る。三軒の電気屋をまわって、やっと、たった一個のコンセントをみつける。コンセントをみつけた電気屋で、遠い山から下ってきたようなおじいさんが、トランジスタラジオを買って、一万円札を出して、おつりと景品のトップ粉石鹸一箱を貰っていた。(中略)コンセント買いのついでに、ハイランドスケート場をみてくる。烈風の中で、時計と反対の方向にまわり乍ら、満員のスケート客が二十日ねずみのように一生けん命滑っている。(中略)駐車場もほとんど満車。みかんの皮、散乱。みかんの皮は何であんなに一種特別な、うんざりするほどだいだい色なのかなあ。

 遠い山から下ってきたようなおじいさんがラジオを買っていた───この短歌のような一文だけでも、その光景のイメージがじゅうぶん膨らむのだが、一万円札を出して───と続くことで、ますますそのときの心裡を推測することができる。
 今でこそ安価なラジオだが、当時は小さなポケットタイプのものでも一万円前後はしていたようだ。
 仙人のような雰囲気のおじいさんが、当時の重要な情報機器であるトランジスタラジオを購入する。彼はそれを自宅へと持ち帰り、ニュースや大相撲中継などに耳を傾けながら、景品の粉石鹸で洗濯をする。あるいは正月休みに帰省してきた孫へのプレゼントかもしれない───きっと百合子はラジオとおじいさんの行く末をあれこれ想像し、迷わず書き留めた。
 シチュエーションをむりやり現在に置き換えてみれば───大型電気店の初売りに出かけると、ヨボヨボの老人がクレジットカードで最新型のMacBook Airを買っているところを見かけたようなものか。たぶんぼくにとってもそれは、すごく印象的な光景だろう。

 つづくスケート場の描写でもぼくはあることに気づかされる。
 それは「時計と反対の方向にまわり乍ら(ながら)」という箇所だ。
 たしかにスケート場では、時計の反対回りに滑る。スケートにかぎらず、陸上のトラック、自転車競技のバンクや競艇場なども、よく考えたらすべて時計と反対方向の回転だ。
 ただし例外もあって、競馬場には時計回りと反時計回りが混在する。日本には全部で十箇所の競馬場があるが、そのうち三つ(東京、新潟、中京)だけが反時計回りで、残り七つが時計回り=右回りなのだ。ヨーロッパの競馬場はほとんどが時計回りで、日本の競馬場はヨーロッパ式をお手本に作られた。なので、そっちがメジャーになったのだという。ちなみにアメリカの競馬場では、反時計回りになっているのだとか。
 そもそも時計が右に回るのは、時計の原型が日時計だからだ。東から上った太陽が西に沈む。影は右から左に半円状に動いていく。それをベースに歯車、針、文字盤という機構で人間が時計をつくりだしたとき、針の動きを右回りにしたのだ。
 かたや、ほとんどの周回競技で反時計回りなのは、左に心臓がついている人間のからだの構造が理由だそうだ。からだを心臓側に傾けて周回するほうがスムーズに動ける───という理屈らしい。もちろん利き腕や筋肉の付き方、骨格の偏りなど、走者全員が反時計回りのほうが得意なわけではないけれど、とにかくそういう生理に従って、リンクやトラックやバンクは反時計回りに作られている。
 ちなみに馬の心臓も左側についている。しかし、二十日ねずみの心臓はからだの真ん中にある。

 最後の、みかんの皮の色の話もおもしろい。たしかにあれはうんざりするほど特別なだいだい色だ。もともとみかんの皮にはリモネンと呼ばれるワックス成分が含まれている。果実の水気を守るためのものだ。みかんの皮でフローリングの床磨きをしたり、油性マジックの落書きをこすれば落ち、発泡スチロールなどが溶けることをごぞんじの方も多いだろう。もちろん元々の皮の色自体が鮮やかなのだが、リモネンの効果でどうしても陽に当たるとギラギラした、どぎつい色に見えるのだ。みかん県の住人としては、百合子さんに教えてあげたい薀蓄である。

伊丹十三『日本世間噺大系』より
伊丹十三『日本世間噺大系』より
 みかんのついての薀蓄といえば、伊丹十三の『日本世間噺大系』のなかに収録されている、そのものずばり「蜜柑」という文章を思い出す。
 ベテランみかん農家との対話(おそらく『遠くへ行きたい』だろう。場所は伊丹と縁の深い愛媛ではなく、初島という地名が登場するので、伊豆か熱海あたりのみかん畑で収録されたと思われる)を再録したエッセイで、伊丹らしく「ミカンの正しい向き方」などを農家から教授してもらい、図解入りで説明してある。

デビュー作『ヨーロッパ退屈日記』のなかにも「ミモザ」というエッセイもある。

ヨーロッパの朝食で一番贅沢な飲物は何だと思う?

 ……という、これまた伊丹らしい書き出しではじまり、続きはこうだ。

グレープ・フルーツ・ジュースなんかじゃないよ。グレープ・フルーツは、日本では二、三百円、高い時には五百円なんていう時もあったが、ロンドンでは、一等いいやつが一個一シル、即ち五十円だ。何といっても奢りの頂上は「ミモザ」ということになる。「ミモザ」というのは、シャンパンをオレンジ・ジュースで割ったものだ。

 伊丹のお気に入りのカクテルで、飛行機に乗るとシャンパンを注文し、無料で配られるオレンジ・ジュースで割って、ミモザにして飲んでいたという。
 グレープフルーツのくだりも少し解説しなくてはいけないかもしれない。グレープフルーツは昭和四十六年(1971年)に輸入自由化されるまで、日本では高級なフルーツのひとつだった。伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』が書かれたのは六十年代中頃なので、もちろん当時の日本もそうである。
 実は『富士日記』のなかにもグレープフルーツに関する記述がずっと先(下巻)に出てくる。昭和四十四年(1969年)七月二十七日の日記である。

テレビで。グレープフルーツが自由化になると、一個五十円位になるといっている。私はグレープフルーツを一個五十円で早く食べたい。(昭和四十四年七月二十七日)

 おそらく自由化について一斉にアナウンスされたのがこの日だったのだろう。
 ただ、一個五十円で早く食べたい───と呟いた百合子だが、昭和四十六年以降の日記をざっとさらったかぎり、グレープフルーツが食卓にのぼったという記述は二、三箇所しか見つけられなかった。逆に目立ったのはプリンスメロン。まあ、そんなもんですよね。