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via. TOKYO 1964 | From the Official Olympic Book :: Kenzo Tange

昭和三十九年十二月

 先日(二〇一五年四月二十二日)、京都の恵文社コテージで和田誠をテーマにしたトークショーに出演した。
 和田誠が広告デザイン会社「ライト・パブリシティ(以下、ライト)」で働いていた一九六〇年代にスポットを当て、彼が書いた回顧録『銀座界隈ドキドキの日々』をサブテキストに、戦後の広告デザイン界、当時の銀座について、相方の堀部篤史とともに調べ上げた。
 その時代の日本は復興にある程度カタが付き、より豊かで、文化的で、クリエイティブな社会へと舵が切られつつあった。おそらくは今のIT業界などと同様、変化は急速だった。
 広告デザイン専門の会社として先鋭的な仕事を手がけていたライトは、才能ある若者たちを次々と惹き寄せた。和田誠をはじめ、田中一光、細谷巌、土屋耕一、篠山紀信といったビッグネームたちが席を置き、精力的に働いていた。
 しかし六〇年代の中頃から、彼らが仕上げた広告に対して、クライアントや広告代理店から大きく口を挟まれるようになったという。今の感覚ではまったく当たり前の話だが、それ以前には無かったことだった。

東京オリンピックポスター
東京オリンピックポスター
 広告は記載されている文字情報が誤っていなければ、ゴーサインを出すクライアントが多かった。クリエイティブな部分はデザイナーたちの完全なコントロール下にあった。
 広告代理店の役割も今よりずっとシンプルで、彼らの仕事は新聞や雑誌に広告のスペースを確保することであり、デザインなどは契約すればおまけとして付いてくるもの、といった扱いだった。だからこそライトのデザイナーやコピーライター、写真家たちは思う存分、オリジナリティを発揮して、後世に残る広告を世に送り出した。

 こうした状況を変節させたきっかけは、やはりこの1964年に開催された東京オリンピックだろう。
 開催地として、復興を遂げたばかりの市街地には改良が加えられることになった。道路は大幅に拡張され、河川や海はアスファルトの下に埋め立てられ、都心から路面電車が消えた。
 東京オリンピックは華々しい高度経済成長期にふさわしい近代的なビッグイヴェントであり、前時代的で非効率的なものは真っ先に排除された。古くからの東京を愛する人々は街から風情が消失していくことを悲しんでいた。

 かの有名な東京オリンピックのポスターもライト・パブリシティが大きく関わって制作された。
 日本デザインセンターに在籍していた亀倉雄策がアート・ディレクションを、フォト・ディレクションと撮影はライトの村越襄と早崎治が担当した。戦後初の国家的プロジェクトを推し進めるために、ライバル会社に在籍していたクリエイターたちが手を結んだ。世界に負けない日本発のデザインを……と彼らが先導し、日本人のデザインに対する意識は確実に向上した。
 そして「消費は美徳」「使い捨て」が常識になり、優れた広告デザインがさらなる消費を煽った。もはや広告は儲かる商売だった。福田赳夫が言い出した「昭和元禄」も、まさにこの1964年に流行した言葉だ。和田誠はそんな環境の変化や、ビジネスライクな仕事を会社員として請け負わねばならないことに違和感を覚えており、入社から十年を待たず、1967年にライトを退社した。

 和田のようなオリンピックそのものに関心を払わなかった人々でさえ、恩恵を受けなかったわけではなかった。
 和田、篠山紀信、横尾忠則は、五輪期間中に初めての海外旅行に出かけている。目的はヨーロッパ周遊。オリンピックのために海外から選手を運んできた飛行機がたくさん日本にやってきた。その帰りの便の座席を埋めるため、安いパック旅行がたくさん組まれたのだ。約三週間の日程でオランダ、ドイツ、スイス、フランス、イタリア、イギリスを回った。和田はロンドンで初めてブロードウェイ・ミュージカルをナマで見た。『サウンド・オブ・ミュージック』のロンドンキャスト公演だった。


 
 しかし、そんな時代にあって、その後『富士日記』として出版されることになる───まだ名も無き一冊の日記帳には、昭和三十九年、いや戦後最大のイヴェントだった東京オリンピックの「と」の字も記載されていない。
 そうした喧騒から距離を置くため、彼らは東京を離れ、辺鄙な山梨に別荘を買ったのだ。それはもちろん理解できる。十月二日から十一月七日、ちょうどオリンピックと重なる期間中は日記の記載も途切れている。その間は東京でずっと暮らしていたはずだ。おそらく自宅の周辺は大変な騒ぎだったにちがいない。
 
 百合子たちは東京オリンピックに関心がなかったのだろうか?
 結論から言えば、おそらくそうでなかったと思う。

 百合子の高校時代の同級生たちが作っていた同人誌『かひがら』の存在は、ファンによく知られている。『かひがら』に掲載された百合子の文章も、村松友視が書いた『百合子さんは何色』や、文藝別冊『武田百合子』などで発掘され、数多く紹介された。直接オリンピックなどに触れているわけではないけれど、時代の変化への感じ方という部分で、百合子のスタンスをよく表わしている文章がある。

横浜の海も埋立てられるとかで、私達の過した夏の横浜もずいぶん変わってゆきますね。戦争の間の事など、話をしても通じないし、興味ももたない、西洋映画の中の事のように思っている若い人が、夏の盛りを思う存分楽しんでいるわけなんですもの。そうして、そういう若い人、男の子も女も女の子もびっくりする位、きれいで生き生きとしている人が多くて、そうでない暗い、淋しい様な感じの若い人は、くしゃくしゃしていて、面倒臭くて、愛してやるわけにはいかないみたいです、この頃の若い人のことをあんまりかげがなさすぎる、軽薄だ、内容に乏しい、そんなことをいう人があるけれど、かげがない、明るすぎるくらい明るい、深みがない、みんなすばらしいと思うわ。深みというのは人によって解釈のしかたが違うもの、若いというのは、夏みたいにすぐに終って、どんな人にでも生活をして生きてゆかなくてはならない人間の宿命があって、おじいさんやおばあさんになるまでに、にごりやさびや、垢やかびや、がくっついてくるんですもの。五十の愚連隊なんて、みたことないものね。(昭和三十五年十一月二十五日発行『かひがら』五号)

私この頃、東京の自動車の洪水も、夜のネオンサインの洪水も、衣服の流行ぶりも、めちゃくちゃの雑草の様なエネルギー、それから桜の花どきの大さわぎも、皆好きだなあ、と思います。宮城のおほりの白鳥や水鳥も。それを横になり、たてになりして夢中でうつしている定休日の若い工員さんや店員さんも。楠公の銅像の前でおじぎをしているおじいさんや、バスガールの説明を感心してきいている田舎の団体の人たち、田舎の人だって東京の人だってみな同じ顔をしていてかわらないわ。四十近くまで日本で生きていて、今頃になってはじめて日本が好きだなんていうのはおかしいかもしれないけれど。(昭和三十六年六月六日発行『かひがら』)

 どちらも東京オリンピックの数年前に書かれた、百合子が三十五、六歳のときの文章だ。
 上高井戸から赤坂へ引っ越した時期で、自動車免許を取り、車を運転し始めたのもこの時期である。
 人間も都市も、生きながらえば否応なく汚れていく。若さは一瞬。キラキラと光るような時期は人生の中でそう長くはない。しかし悲惨な戦争は終わり、平和な時代になったのだ。軽薄の何が悪い。明るさの何が悪い。刹那的な生き方の何が悪い。田舎の人も東京の人も同じ顔をしている。そしてみんな違う顔をしているのだ。戦後の日本に訪れた”夏の盛り”こそ、まさにこの時期だった。

 そうは言っても、泰淳や百合子はもはや若者たちと共に熱い夏を謳歌するほど若くはなかった。心情はともかく肉体的についていけないところはあっただろう。だからこそ彼らは富士の麓にシェルターを作った(このあと泰淳は富士山麓にある精神病院を舞台にした長編小説『富士』を書く)。もちろんこうした別荘地の開発やインフラの整備も、オリンピックのような外的刺激から産まれたものなのだが。

 高度経済成長期の三種の神器といえば、カラーテレビ、クーラー、自家用車だったが、彼らはこの時期、別荘にテレビを置かなかった。ただしラジオはあった。高原暮らしにクーラーはもちろん不要だ。唯一、東京と別荘を自由に行き来するためのビークルとして自動車は手に入れた。当時、一般的な車で50〜60万円と高価だったが、普及は爆発的だった。
 車の数が増え続ける一方で、日本人の運転モラルはまだとても低く、道路整備も不十分。交通事故による年間死傷者数が37万人にも及んだ<交通戦争>の時代でもあった。

 



 オリンピックのことも含めて『銀座界隈ドキドキの日々』では、この昭和三十九年の出来事は「1964年」という一章としてページが割かれている。

・幻の雑誌『エルエル』がパイロット版のみでポシャる。
・横尾忠則、宇野亜喜良といった友人たちと共に「東京イラストレーターズ・クラブ」を発足。
・細谷厳の結婚式を総合演出。
・初めてのオリジナルアニメーション作品『殺人!マーダー』発表。

 六〇年代版『アオイホノオ』とも言うべきとてもおもしろい本なので、ぜひ読んでみてください。