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昭和三十九年十一月

 この月、武田一家が山荘に滞在したのは都合二回で、十一月七日、二十一日、二十二日の三日分が記録されているのみ、だ。

東京を朝五時少し前に出発。八時山へ着く。(略)富士山は八合目あたりまで雪。裾まですっかり姿を見せている。(略)パンを持って、お午頃、三人で本栖湖へ行く。途中の樹海の紅葉がすばらしい。右側も左側も紅葉。その中を真直ぐゆっくり走って行く。いつもうなるようにとばしてすれちがうトラックは一台もなく、しいんとした快晴。天皇陛下の自動車のように走る。(十一月七日)

 十一月七日は快晴の土曜日で、親子三人そろって本栖湖へ出かけた、と書いてある。夏休み以来、ひさしぶりに花を伴っての山荘行きだった。

 早い年では九月頃、富士山初冠雪のニュースを聞くことがあるけれど、前回、百合子と泰淳が富士へ行った十月二日の日記に、雪の記述は無かった。甲府地方気象台のHPで初冠雪の記録を遡ることができるが、この年(1964年)に初めて雪が降ったのは、ちょうどその一週間後にあたる10月9日だった。
 百合子たちが本栖湖へ向かったルートは国道139号線、通称「富士パノラマライン」だ。
 進行方向には途中、富岳風穴と鳴沢氷穴で知られる鳴沢村があり、百合子たちが紅葉に見惚れた樹海とは───もちろんあの青木ヶ原樹海である。
 青木ヶ原樹海は富士山の北西麓に広がる広大な原始林だ。30平方キロメートルという面積は山手線の内側全体に匹敵する。冷え固まった溶岩流の上に生い茂った樹木、さまざまな動植物を身近に観察できるトレッキングスポットとして古くから有名である。樹海や富士山、西湖や本栖湖を360度パノラマで見渡すことができる紅葉台というスポットも有名で、とりわけ10月後半から11月中旬の紅葉の季節には、多くの観光客が訪れる。

 天皇陛下の自動車のように───という百合子の表現は鳥肌が立つほどすばらしい。
 美しい紅葉を堪能するべく、車をゆったりと走らせているさまはもちろん、泰淳、百合子、花の三人が左右両方の車窓を交互に見つめている様子さえ目に浮かぶようだ。
 誰にも伝わるやさしい言葉で、これだけイメージ豊かな比喩を思いつく文章家は、プロでもそう多くいまい。

 本栖湖では、百合子や花が楽しみにしていたボート屋が季節外れのために店じまいしていたり、湖岸のドライブでは、山梨県一周駅伝のランナーたちや先導の白バイに出くわし、「駅伝の人をひいてしまったら大へんなので」早々と山荘へ戻った。
 山梨県一周駅伝は、地元新聞社などが主催する大きなレースで、県内を20区間、約164キロの道のりを走破する。土日の二日間にわたって開かれる大掛かりな大会で、山梨では冬の風物詩だという。今年(2015年)で52回を数えるため、この昭和39年は第2回大会となる。現在は十二月最初の週末に日程が固定され、この富士吉田〜本栖湖周辺は二日目(日曜分)のコースとなっている。
 山荘から東京への戻りについては日記に書かれていないが、おそらく月曜からは花の学校があったはずなので、翌八日には帰途についたと思われる。


朝五時半、赤坂を出る。白菜、キャベツ、大根、きゅうり、使いかけの野菜、ウインナソーセージ、ベーコン、卵、のり、餅、パン。山へ着いてすぐ買出しに下りなくてすむように積み込む。庭には霜柱が深くたっていて、富士山は四合目あたりまで雪。(十一月二十一日)

 前回の山荘行きから二週間が経って、八合目あたり(標高3100メートル)までだった富士山の冠雪は、四合目(標高2100メートル)まで下りてきている。
 山荘の周辺も本格的な冬構えの時期である。そんな中、あの名物キャラクターが山荘へやって来た。

外川さん、昼に来る。石門の見積りの値段がなかなか出ない。手帳を出して数字を書いては「ウウウ、ウウウ、えーと」と、息のような音を出しながら言わない。手帳をのぞこうとすると手でかくし、しまいには、うしろ向きになって書いている。外川さんは平方メートルのことを「へエベー」といい、つちまたはどろのことを「」という。「田舎の人は漢語を使うんだな」と、外川さんが帰ってから、主人は感心したように言った。(同日)

 なにやらどこかで見覚えのある記述───そう、第六回で引用した八月九日に出てくるやりとりと瓜二つだ。

石屋の小父さん来る。六万七千をもう少しまけないかというと、うしろ向きになって鉛筆をなめなめ、手帳に何か書きつけては、「ううう、ううう」と息のような、声のようなものを洩らしながら、しばらく思案してから、こちらを向いて「六万五千にする」という。(八月九日)

 石屋の小父さんとは、もちろん外川さんのことである。単なるリプレイではなく、”息のような音”の表現が平仮名からカタカナになっていたり、『そんなわけないでしょ』とつっこみたくなるような泰淳の一言が付け加えられている点など、ディティールの変化がおもしろい。
 工賃がいくらで折り合ったのかという具体的な記載が無いのは残念だが、百合子と外川さんの手帳を巡る攻防戦は、その様子を想像しただけで頬が緩んでくる。
 
 翌二十二日、百合子は早朝から花とともに東京へ戻った。
 理由は花を学校の日曜礼拝に出席させるためだ。百合子たちは休んでいいものだと勝手に思い込んでいたようだが、ミッションスクールである立教女学院では、日曜礼拝もまた「聖書教育」という大事な授業課目だった。担任に呼び出され「休んでばかりいてはいけない」と、親子ともども叱られた。
 翌日が月曜なので、おそらく花はそのまま寮に戻ったのだろう。百合子は以下の荷物を車に積んで、ふたたび東京を後にした。

新潮社の赤い日本文学全集の残りと、座布とん二枚、緑色のとん(ツチヘンに敦)[陶製の腰掛]、ウイスキー、ビール一打を積む(八月二十二日)

 午後二時に赤坂を出て、六時前に山梨の山荘へ到着。すでに泰淳はふとんの中だった。
 このあと日記は十二月末まで記載が無い。しかし、前日そしてこの日も大量の食料品などを東京から持ち込んでいることから想像するに、しばらくは二人きりで山ぐらしを続けたのではないだろうか。